二月二十六日 大会議室

黒江の返信を読んだ大槻は、「細かいことは、試せば分かる」と言った。二月十二日から2週間、クラウゼルが社内のFAQを読ませたチャットを試す実証実験、PoCを行うことになった。汀システムの3枚の提案は、瀬尾の机の引き出しに入ったままになった。

二十六日のデモには、大槻と各部の部長が集まった。黒江が配った質問例の紙から、部長たちが一つずつ選んで打ちこんだ。

デモ画面

質問:A-120の校正は、どのくらいの間隔で頼めばよいですか。
回答:A-120の校正の間隔は、取扱説明書の「保守」の項に記載の周期を目安にしてください。屋外や高温の環境でお使いの場合は、間隔が短くなることがあります。お申し込みは、校正受付の窓口で承ります。

交換部品、保証の期間、旧製品からの置き換え。チャットはどの質問にも、数秒で、整った文章で答えた。

「見事だな。本導入だ。四月から全部署に広げられるか」

「もちろんでございます。弊社のソリューションですと、御社のナレッジをすべて活用いただけるかと存じます」

拍手が起きた。瀬尾も手を叩きながら、一条の講演のあとで倉田が言ったことを思い出していた。読ませた資料が何件で、誰が整えたのか。

「黒江さん、今回読ませた資料は、何件でしたか」

「御社からいただいた資料をもとに、弊社で最適化させていただきました。詳細は報告書にまとめてお送りいたします」

倉田は、読ませた資料の一覧を今日中にください、とだけ言った。

二月二十七日 情報システム課

一覧は翌朝に届いた。倉田は瀬尾を自分の席に呼び、画面を見せた。

PoC 読み込み資料一覧(クラウゼル・テクノロジーズ)

FAQ 30件(御社ご提供の過去の回答メールより、弊社にて質問と回答の形に整理し、型番表記を統一)

「30件だ。しかも向こうで手で整えてる。型番の書き方をそろえて、古い回答を抜いて、一問一答にしてある。デモの質問例も、この30件から作ってあった」

「社内のFAQって、ほかにもあるんじゃないの?」

「ない。村瀬さんに確かめた。FAQと呼べるものは、うちには存在しないんだよ。あるのは、村瀬さんの頭の中と、村瀬さんのノートと、5年分のメールだけだ」

昨日のデモは、嘘ではなかった。30件の、きれいに整えた質問には、たしかに見事に答えていた。確かめられたのは、そこまでだった。

三月二日 カスタマーサポート課

村瀬は、机の引き出しから大学ノートを5冊出した。課の中では「村瀬ノート」と呼ばれている。開くと、細い字で、過去の問い合わせと対応の要点がびっしり書いてあった。

「A-120の問い合わせはね、まず設置場所の温度を聞くのよ。夏に屋外の盤の中で使うと、値がずれるの。どこにも書いてないけど、それで半分は片づくわ」

倉田は隣の画面で、過去5年分、約3万スレッドのメールを開いていた。「A-120」「A120」「A-120型」。同じ製品の書き方が何通りもある。仕様が変わる前の回答と後の回答が、同じような問い合わせに並んでいた。

「AIに読ませるなら、3つそろっていないといけないんです。文字として読めること。いま正しい版が一つに決まっていること。判断の基準まで書いてあること」

「ノートは手書きだから1つ目が駄目で、メールは古い回答が混ざってるから2つ目が駄目、ってこと?」

「3つ目もだ。メールには『確認のうえご連絡します』としか書いてない。何を確認したのかは、村瀬さんの頭の中にある」

瀬尾が対応の流れを聞くと、村瀬の説明は3行で終わった。受けて、型番と症状を確かめて、答える。瀬尾は質問を変えた。

「新人の方が、最初によく間違えるのはどこですか」

そこから話が止まらなくなった。お客さんが書いてきた型番を、そのまま信じてしまう。旧製品の問い合わせに、新製品の手順を送ってしまう。取付寸法を聞かれて、図面を見ずに答えてしまう。どれも、3行の流れには入っていなかった。新人が初日に迷う場面の一つ一つが、記録しなければならない中身だった。

「図面を見ないと答えられないのは、たまにあるくらいだけどね」

瀬尾は、その「たまに」をその場で数えることにした。一月の受付台帳を開き、設計や工場に確認を回した印のある行を拾っていく。2,400件あまりのうち、290件あった。

「村瀬さん、12%です。8件に1件」

「……そんなにあったの」

毎日さばいている本人には、それが「たまに」に聞こえるのだ。聞き取りだけなら、この1割強は抜けていた。

台帳を見ていた倉田が、別のことに気づいた。電話の問い合わせは、いったん紙の受付票に書き、夕方にまとめて台帳へ打ち直している。

「これはAIの前に消せます。最初から台帳に打てば、打ち直しは要らない」

例外の記録を1か月取らせてほしい、と瀬尾が言うと、村瀬の表情が少し硬くなった。

「うちの子たちが気にするわ。記録を取ったら、誰が遅いか分かるでしょう」

「誰が遅いかは見ません。見たいのは、どの問い合わせで迷うかです。それが書き出せれば、新人の方がひとりで答えられるまでが短くなります。村瀬さんが休んでも、窓口が回ります。個人の評価には使わないと、紙に書いてお渡しします」

「わたしが休める、は大事ね。そう言ってくれれば、あの子たちも書くわよ」

PoCが成功したことで分かったことは何か。そして、まだ分かっていないことは何か。

同じ日 夜 情報システム課

倉田は書庫から5冊の報告書を出し、机に並べた。この3年で社内で行ったPoCの報告書だった。おととしの補修部品の需要予測も、その中にあった。

PoC報告書 5件の結論欄

技術的には実現可能と考えられる。今後、精度の向上と対象の拡大を検討する。(5件とも、ほぼ同じ文言)

「5件とも成功してる。本番になったのは一件もない。どの報告書にも、本番にするまでの残作業の欄がないんだよ。権限、止まったときの監視、例外を誰がさばくか、費用の上限、誰が保守するか。で、それ誰が直すの、が一度も書かれてない」

「始める前に、何と比べるかも決めてないよね。これ」

「止める条件もな。止める条件がないPoCは、判断されないまま次のPoCになる」

瀬尾は、手帳の見開きのまん中に線を1本引いた。

瀬尾の手帳(見開き)

確かめられたこと:整えた30件の質問には、正しく答えられる。つまり、原理的には可能。

確かめられていないこと:件数(月約2,400件、過去メール約3万スレッド)/形式(型番表記のばらつき、手書きのノート)/更新(旧版と新版が混在。直すのは誰か)/例外(12%)/権限(顧客の情報を誰が見られるか)/費用(件数が増えたとき)/保守(誰が直すか)

右側のほうが、ずっと長かった。倉田が台帳を型番の系列ごとに数え直すと、件数がいちばん多いのは型番A系だった。倉田はその夜のうちに、型番A系のメールを抜き出し始めた。

三月三日 常務室

「結論から頼む。本導入でいいな」

「PoCで確かめられたのは、原理的に可能か、だけです」

瀬尾は手帳の見開きを見せ、30件の出どころと、12%と、5冊の報告書のことを話した。大槻は腕を組んだ。

「他社はもうやってるぞ。ここで止めたら、また1年遅れる」

「止めたいのではありません。判断できる試し方にしたいんです。始める前に4つを決めさせてください。何と比べるか。どこまで動けば成功か。いつ判定するか。どうなったら止めるか。それと、結果をお聞きいただく会議の日付を、今日押さえさせてください」

「範囲は」

「型番A系の問い合わせだけです。いちばん件数が多いので、効いたかどうかが数字で分かります。汀システムは、最初からうちの過去のメールで、回答案までを試す形を出しています。送信は人がやります」

大槻はしばらく黙っていた。

「全社に広げるのは、その結果を見てからか」

「はい。三月末の会議に、結果をお持ちします」

「分かった。4週間だ。悪い結果でも、そのまま持ってこい」

限定試行の計画(1枚目)

範囲:型番A系のメール問い合わせ。出力:回答案まで。送信は担当者。委託先:汀システム。期間:三月二日(準備開始)から4週間。比較対象:型番A系の、いまのやり方での対応時間。成功の基準:確認にかかる時間を含めて短くなり、誤った案内が出ないこと。止める条件:誤った型番の案内が送信前の確認をすり抜けたら、その時点で止める。判定:三月末の判断会議。記録は個人の評価に使わない。

計画の最後の1行は、村瀬のチームに最初に見せる紙にも、同じ言葉で書いた。

瀬尾は手帳に書いた。

「PoCの成功で分かるのは『原理的にできる』まで。始める前に、比べるもの・基準・期限・止める条件を書く」