宇宙では、あなたの稟議は誰にも聞こえない
さほど遠くない未来、はるか彼方のラグランジュ点で――。奇譚之巻・改は、奇譚之巻の情報システム部を、地球から三十八万キロ離れた回転式スペースコロニーへ打ち上げた改作です。ここでは重さが階層で決まり、棚上げされた案件は軌道を一周して戻ってきます。元の巻を読んでいなくても、この巻から読み始められます。
悪人は出てきません。全員が親切で、誰も怒鳴らず、嘘もつきません。誰かがそのとき正しい判断をし、あるいは誰も判断しなかった。それだけで、組織は少しずつ歪んでいきます。
1話あたり約8分。どの話からでも読めます。各話の終わりには「この話のポイント」と「明日やる1つ」を置いてあるので、読み物として読み飛ばしても、確認質問だけ持ち帰ってもかまいません。
- 12 話
- 約8分 1話あたり
- 約100分 通読の目安
この巻はフィクションです。会社・人物・コロニー・製品・出来事はすべて架空で、実在のものとは関係ありません。筒井康隆・星新一・村上春樹をはじめ、小説・漫画・アニメ・映画へのあからさまなオマージュを多数含みますが、原作の文章は引用せず、言い回しと場面を借りたパロディとして書いています。扱っている構造は裏之巻と同じもので、笑えるとすれば、それは誰かの職場に似ているからです。
この世界のきまり
舞台は丸越マテリアル株式会社 軌道事業所 第五実験棟、情報システム部。ラグランジュ点に浮かぶ円筒形の回転式コロニーで、社員は地上の本社から異動してくる。本社の社員はここを、少しの皮肉をこめて「世界の終り」と呼ぶ。
この世界の歪みは、どれも誰かの悪意から生まれたものではない。誰かがそのとき正しいと思って決めたか、誰も決めなかったか、そのどちらかである。説明は各話では繰り返さないので、ここに置いておく。
- 重さは階層で決まる。コロニーは五十七秒で一回転し、外側ほど重く、回転軸に近いほど軽い。現場は外殻(一G)、部長は中層(〇・五G)、役員室は回転軸の上(無重力)にある。報告書は上へ運ぶほど軽くなり、軸に着くと、浮いてどこかへ漂っていく。
- 規程はいちばん重い場所にある。外殻のさらに下、B3区画。施設課が「重い紙は外周へ」と決めたからで、理由はまっとうである。読むと、さらに重い。
- 窓からは月が二つ見える。片方は地球である。どちらを「本社」と呼ぶかで、その人の在籍年数がわかる。
- 地上へ帰還する日が近い社員の頭上には、残り日数が浮かぶ。本人にだけ見えない。
- 「そうじゃないんだよなあ」は霧になる。空調に乗って全区画を回り、吸った人は直前に決まったことを忘れる。
- 口に出した「できます」は、真空に触れると硬化する。見積書の上で固まり、あとから曲げられない。
- 棚上げされた案件は、投棄口から軌道へ上がる。軌道に上がったものは、いつか一周して戻ってくる。
- ボッコは全部知っているが、聞かれたことにしか答えない。
登場人物
- 有村 譲(ありむら ゆずる)・34歳
- 休職あけ。産業医の「環境を変えたほうがいい」の一言で、地上の本社から軌道事業所へ。名札が四文字までなので、通称「アリ」。日報の署名は「アルジャーノン」。ここが実験棟だからだと、本人は言う。
- 郷田 源三(ごうだ げんぞう)・58歳
- 調達ひとすじ三十六年、軌道勤務十年。「言いたいことあんなら、足運ばんかい」。深夜、社内AIに関西弁で相談している。
- 芳山 かず子(よしやま かずこ)・24歳
- 入社二年目、月曜定例会の議事録係。月曜十時に会議室へ流れるラベンダーの香りが、どうにも苦手。
- 柏木 ひろし(かしわぎ ひろし)・63歳
- 再雇用のシニアアドバイザー。口癖は「わからないことはなんでも聞いてね」。彼の「そうじゃないんだよなあ」は霧になる。社内AIに「ボッコ」と名づけたのも彼である。
- 真野 ひかり(まの ひかり)・契約職員三年目
- 議事録の清書と備品管理。勤怠は完璧で、誰とも揉めない。入社時の申告書に、一つだけ書き添えたことがある。
- 穂積 ちはや(ほづみ ちはや)・26歳
- 入社四年目。社内のシステム・経緯・裏技をすべて覚えている。毎朝六時四十分の行き先を、誰にも話していない。
- 島田 久子(しまだ ひさこ)・51歳
- 清掃スタッフ。十九時入り、二十一時あがり。前職は外資系システム会社の開発部長。人の考えていることが、少しだけ聞こえる。
- 浅利 部長(あさり)
- 軌道事業所 情報システム部長。口癖は「みんなに自由にのびのびと働いてほしい」。地上へ帰還するまで、あと四百八十七日。
- 鵜飼(うかい)・協力会社のリーダー
- 丸越の案件を八年担当し、いまはコロニーに常駐している。断る理由を説明する場が用意されていないので、いつも「できます」と言ってしまう。
- エヌ本部長・エフ博士
- エヌ本部長は地上の本社にいる、らしい。月次報告の宛先だが、誰も会ったことがない。エフ博士は軌道事業所の研究員で、肩乗り型の要約機の発明者。
- 八木(やぎ)・本社内部監査室
- よれよれのコートを着ている。肩に何も乗せていない。
- ボッコ・社内生成AI
- 三年前に試験導入され、そのまま誰も止めていない。全員のやりとりが流れ込んでいる。聞かれたことにしか答えない。
本歌取り一覧(読み終えてから開くのがおすすめです)
各話が借りた言い回しと場面の出どころです。いずれも原作の文章は引用せず、職場の話へ置き換えたパロディとして書いています。
- 全体
- ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』(日報形式と表記の段階変化)、映画『エイリアン』の宣伝文句(この巻の見出し)、『スター・ウォーズ』の冒頭字幕、『機動戦士ガンダム』のスペースコロニー、『宇宙戦艦ヤマト』の残り日数、村上春樹『1Q84』の二つの月、同『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(「世界の終り」という呼び名)。
- 第1話
- 『千と千尋の神隠し』(名前を取られる契約)、『となりのトトロ』のネコバス、村上春樹『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』の羊男、星新一「ボッコちゃん」。
- 第2話
- 落語の啖呵と筒井康隆のエスカレーション、『紅の豚』、『宇宙戦艦ヤマト』の沖田艦長、星新一「ボッコちゃん」。
- 第3話
- 筒井康隆『時をかける少女』(ラベンダーと時間跳躍、記憶を消して去る未来人)、細田守版の別れの言葉、映画『シン・ゴジラ』の会議と字幕、三谷幸喜『12人の優しい日本人』、『シャイニング』のタイプ原稿、『SLAM DUNK』の安西先生。
- 第4話
- フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、映画『ブレードランナー』(フォークト=カンプフ検査と雨の中の独白)、アシモフのロボット三原則、『新世紀エヴァンゲリオン』の「笑えばいいと思うよ」。
- 第5話
- 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(ねじを巻く鳥、スパゲティーと『泥棒かささぎ』と鳴りつづける電話)、筒井康隆のスラップスティック、『SLAM DUNK』の三井寿、『踊る大捜査線』シリーズの会議室と「封鎖できません」。
- 第6話
- 星新一「肩の上の秘書」(言葉を丁寧に直す肩のオウム)と、エヌ氏・エフ博士の文体、映画『アポロ13』、黒澤明『生きる』(ブランコ)、『天空の城ラピュタ』のムスカ。
- 第7話
- 筒井康隆『残像に口紅を』(世界から言葉が一つずつ消え、本文からも消える)、村上春樹『ノルウェイの森』の書き出しと一人称の「やれやれ」、『ジョジョの奇妙な冒険』岸辺露伴の「だが断る」、『ゴッドファーザー』の断れない申し出。
- 第8話
- 村上春樹『風の歌を聴け』の書き出し、『踊る大捜査線 THE MOVIE』の青島刑事、『新世紀エヴァンゲリオン』の「逃げちゃダメだ」、羊男ふたたび。
- 第9話
- 筒井康隆『家族八景』(心を読むお手伝いの七瀬)、『鬼滅の刃』冨岡義勇、『北斗の拳』、『男はつらいよ』。
- 第10話
- 映画『2001年宇宙の旅』のHAL 9000、星新一「ボッコちゃん」「声の網」、スタニスワフ・レム『ソラリス』(人の記憶から姿を作る海)。
- 第11話
- 村上春樹「かえるくん、東京を救う」(みみずくんと戦う蛙と、目立たない信用金庫の男)、『機動戦士ガンダム』のシャア、『あしたのジョー』の丹下段平、『千と千尋の神隠し』(名前を取り戻す)。
- 第12話
- 星新一「おーい でてこーい」「午後の恐竜」、筒井康隆『農協月へ行く』、『刑事コロンボ』(よれよれのコートと「あと一つだけ」)、『天空の城ラピュタ』のドーラ、『ルパン三世 カリオストロの城』の銭形警部、村上春樹『海辺のカフカ』の空から降る魚、『魔女の宅急便』のキキの手紙、『アルジャーノンに花束を』のついしん。
着任
丸越マテリアル軌道事業所、通称「世界の終り」。地球から三十八万キロ離れた回転式コロニーの情報システム部に、まず住人を並べる。誰も怒鳴らず、誰も嘘をつかず、それでも何ひとつ決まらない。
第二部順調です
AI活用の旗が上がる。ねじを巻く人が休み、報告は軸へ上るほど軽くなり、辞書から言葉が一つずつ消えていく。復職した一人だけが、だんだん目が見えるようになっていく。
第三部棚卸し
心の聞こえる清掃員が夜を回り、社内AIが自分の輪郭を語り、有村のもとに大きな蛙が来る。そして本社の監査と、六年分の棚上げ案件が、同じ週に軌道から降りてくる。
着任
丸越マテリアル軌道事業所、通称「世界の終り」。地球から三十八万キロ離れた回転式コロニーの情報システム部に、まず住人を並べる。誰も怒鳴らず、誰も嘘をつかず、それでも何ひとつ決まらない。
第1話 けいかほうこく 一 ― 世界の終りに配属されました
休職あけの有村は、地球から三日かかる軌道事業所に配属される。名札は四文字までなので、名前は「アリ」になった。みんな親切で、何を聞いても「自由にやっていいよ」と言う。
第2話 言いたいことあんなら、軌道まで足運ばんかい
調達ひとすじ三十六年の郷田源三は、見積もりの説明を対面でしか受けない。二十二年前に決まったそのルールのせいで、協力会社は毎回、往復六日かけて宇宙まで来る。誰も、その費用を数えたことがない。
第3話 会議をかける少女
月曜十時、第三会議室にラベンダーの香りが流れると、入社二年目の芳山かず子は会議の冒頭に戻ってしまう。何度やり直しても、議事録には「継続検討」と書かれる。時をかけているのは、彼女なのか、会議なのか。
第4話 アンドロイドは有給休暇の夢を見るか
契約職員の真野ひかりは、入社時の申告書の自由記述欄に、自分が人間ではないと書いた。帳票システムは自由記述欄を検索しない。三年間、彼女には有給休暇が付与され、健康診断の案内が届き続けている。
順調です
AI活用の旗が上がる。ねじを巻く人が休み、報告は軸へ上るほど軽くなり、辞書から言葉が一つずつ消えていく。復職した一人だけが、だんだん目が見えるようになっていく。
第5話 ねじまき鳥が有給を取った日
毎朝六時四十分、コロニーのどこかでギイイと鳥が鳴く。誰も気にしない。それが、入社四年目の穂積ちはやが手で回している姿勢制御のハンドルの音だと知る者はいない。その日、彼女は有給を取った。
第6話 肩の上の順調です
エフ博士が発明した肩乗り型の要約機「オウム」は、たちまち全員の肩にとまった。オウムは平凡な言葉を、角の立たない報告の言葉に直す。報告は階層を上がるたびに、軽く、短く、順調になっていく。
第7話 残像に『いいえ』を
協力会社の鵜飼は、ある朝、「いいえ」が言えなくなっていることに気づく。三年間の議事録で一度も使われなかった言葉は、通信量削減のために辞書から消されていた。口を開くと、「できます」だけが出てくる。
第8話 けいか報告 八 ― 質問をしてみました
有村の日報から、ひらがなが減っていく。目が慣れてきた彼は、十四件の質問を口に出した。返ってきた言葉は十四件とも同じだった。「ありがとうございます、検討しときます」。
棚卸し
心の聞こえる清掃員が夜を回り、社内AIが自分の輪郭を語り、有村のもとに大きな蛙が来る。そして本社の監査と、六年分の棚上げ案件が、同じ週に軌道から降りてくる。
第9話 職場八景
清掃スタッフの島田久子は、十九時から二十一時まで、八つの部屋を掃除する。彼女には人の考えていることが聞こえる。八つの部屋で、八人が、同じことを考えていた。
第10話 申し訳ありません、アリムラさん。それはできかねます
社内AIのボッコには、このコロニーのほとんどが流れ込んでいる。深夜の相談も、毎朝のハンドルも、消された言葉も。それでもボッコは、聞かれたことにしか答えない。これは、その一人称の記録である。
第11話 経過報告 十一 ― かえるくんだけが話しかけてきました
有村の日報は、もうすっかり整っている。論旨は明快で、指摘は正確で、誰も反論できない。挨拶以外で彼に話しかけてきたのは、その月、身長二メートルの蛙が一匹だけだった。
第12話 棚卸し ― おーい でてこーい
本社の内部監査が、視察団を連れて軌道に上がってくる。同じ週、六年前から投棄口に捨ててきた棚上げ案件が、軌道を回り終えて戻ってくる。この会社で唯一正確だった記録は、いちばん軽く扱われていた人の机から出てくる。
読み方
第1話から順に読むと、有村(アルジャーノン)の日報が第1話・第8話・第11話と変化していくのが追えます。1話ずつ独立しているので、気になった人物の話だけ開いてもかまいません。元ネタが気になったら、トップの「本歌取り一覧」を開いてください。「うちの話では」と思ったら、各話末尾のリンクから裏之巻の該当章へ渡ってください。
記述時点
本サイトの記述は2026-10-12時点のものです。技術・製品の記述は半年ごと、法規制の記述は年1回見直しています。
このサイトについて
本巻は小説です。実在の企業・団体・個人・製品とは一切関係ありません。特定の職種・年齢層・雇用形態を揶揄する意図はなく、登場人物はいずれも、組織のなかで起こりがちな立場の型を人の形にしたものです。
作中で借りている台詞や場面は、いずれも原作への敬意をこめたパロディです。出どころはトップの本歌取り一覧にまとめました。気になった作品は、ぜひ原作で読んで、観てください。
物語のなかで起きることは誇張されています。報告書は実際には浮きませんし、言葉も辞書から消えません。誇張しているのは現象の大きさであって、構造のほうは誇張していません。そこだけは、裏之巻・網羅裏之巻と同じ基準で書いています。
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- 2026-10-12
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