三月十六日 常務室
限定試行が始まって2週間がたった朝、瀬尾は常務室に呼ばれた。大槻は、刷り上がったばかりの1枚を机の上で滑らせた。
経営会議資料(案) 大槻
問い合わせ対応AI 限定試行(2週間)の結果:対応時間 平均31%削減。全社展開を推奨する。
「結論から言う。これを今週の経営会議に出す。四月から全部署に広げる話にしたい。三月のうちに決めないと、来期の予算に乗らないんだ」
「この1枚は、どなたがまとめられたものでしょうか」
「私だ。部長の月次報告書をコネクトAIアシストに読ませて、要点を出させた。AIがそう出したんだから、客観的だろう」
「そのとき入力されたのは、月次報告書だけですか。『全社展開を推奨』とありますが、何と比べて推奨したのかが書いてありません」
大槻は資料を見直した。比べた選択肢は、どこにもなかった。AIは渡された1枚を短くしただけで、「推奨」の一語は、短くした文の勢いでついていた。何を読ませ、何を比べさせるかを決めたのは、AIではなかった。
「他社はもう全社でやってるぞ。……まあいい、1日やる。確かめてこい」
瀬尾はその日のうちに、報告を下へたどった。部長の月次報告書には「回答案の導入で対応時間が改善(平均31%短縮)」とあった。その元になった村瀬の課の報告は「一部で改善」。その下にCS課の試行担当が作った集計表があり、いちばん下に、汀システムの岸本が書いた中間報告書があった。
汀システム 限定試行 中間報告書 2ページ
対象:型番A系の問い合わせのうち、回答案を生成できたもの(試行範囲の約4割)。比較:昨年十二月の同種案件の平均対応時間。上記の条件で、対応時間は平均31%短縮した。ただし、取扱説明書の再送依頼など単純な案件の短縮が平均を押し上げている。担当者別の差は、当社では検証していない。
条件は、最初は全部書いてあった。集計表で「十二月」が消え、課の報告で「約4割」が消え、部長の報告書で「一部で」が消えた。常務の1枚に残ったのは、数字だけだった。誰も嘘はついていなかった。一段上がるたびに、紙を短くしただけだった。そして短くするときに捨てられるのは、いつも条件のほうだった。「31%」と「試行範囲の4割について31%」は、まったく別の情報なのに。
同じ日 カスタマーサポート課
村瀬は、試行の画面を開いたまま瀬尾を迎えた。
「楽になった人はいるのよ。取扱説明書の再送なんて、前は10分かかっていたのが2分だもの。でも、新人の3人は前より遅くなったわ」
「遅く、ですか」
「回答案に、どの手順書を見て書いたのかが出ないの。だから新人は案を信用できなくて、結局、手順書を一から引き直すのよ。案を読む時間が、まるまる上乗せでしょう」
隣の席で、入社一年目の今井が回答案を読み、それから共有フォルダの手順書を開いて、型番を一つずつ探していた。
「案が合っているかを確かめる手間が、最初から自分で書くのと変わらないんです。どこを見て書いたのか分かれば、そこだけ見ればいいんですけど」
村瀬が見せた要望メモには、試行の最初の週の日付で、その声が書いてあった。
試行 要望メモ(CS課)
要望:回答案の根拠にした手順書を表示してほしい(新人より)。対応:AIはそういうものなので、対応不可。
「この『対応不可』は、汀システムに確かめたものですか」
「……聞いていないと思うわ。そういうものだって、みんな思っていたから」
瀬尾はその場で岸本に電話をかけた。
「出せます。参照した手順書の名前と該当する箇所を、回答案の下に表示する設定があります。試行の初期設定では外していました。明日には切り替えられます。中間報告に担当者別の差を書かなかったのは、うちでは検証していないからです。検証していない部分は、検証していないと書きます」
瀬尾は要望メモの書式に、対応・保留・不可を選ぶ欄と、理由を1行書く欄を足してもらった。理由の書けない「不可」は、まだ誰も検討していないということだった。
電話のあいだに、集計表を持った倉田が来ていた。
「平均を引っぱっているのは、再送依頼みたいな単純な案件です。型番の読み替えが要る問い合わせは、ほとんど縮んでいません。それに十二月は繁忙期でしょう。待ちが長い月と比べたら、何を入れても縮んで見えます」
「うちの問い合わせは特殊だから、4割にしか案が出ないのも仕方ないのかしらね」
「特殊なのは、どこでしょう。型番の書き方がばらばらなこと、旧版と新版の回答が混ざっていること、取引先ごとの条件、それから……」
3人で一つずつ見ていくと、取引先ごとの条件はどこの会社にもある話で、旧版と新版の混在は記録を整理していないだけだった。本当に朝凪精機に固有なのは、型番の表記くらいだった。
「それなら、読み替えの対応表で片づきます。特殊というより、まだ手を付けていなかっただけですね」
夜、瀬尾は倉田と2人で、明日持っていく1枚を作った。並べてみると、良い数字より、良くない数字のほうが多かった。
「悪い数字ばっかりだよね。常務、怒るかな」
「悪い数字じゃないだろ。まだ誰も見てなかった数字だ」
「対応時間31%削減」を経営会議で使う前に、何を確かめればよいだろう?
三月十七日 常務室
翌日、瀬尾は村瀬と一緒に常務室へ行った。持っていったのは、1枚だけだった。
限定試行 中間報告(瀬尾)
- 対象範囲:型番A系のうち回答案が出たもの。試行範囲の約4割。残り6割は従来どおり
- 確認を含めた所要時間:ベテランは短縮。新人3人は延びた(根拠の手順書が表示されないため。十七日に表示を追加)
- 1件あたりの費用:試行の処理件数を料金表に当てて算出。月2,400件に広げた場合の見通しを添付
- 例外の発生率:回答案を使わず手で書き直した件数の割合。十八日から記録する
- 直せる人の数:社内0人。設定を変えられるのは汀システムの担当者だけ
比較は十二月(繁忙期)をやめ、同じ三月の、試行の対象外の同種案件と比べ直す。
「3割は、嘘だったのか」
「嘘ではありません。条件のついた3割です。報告が上に上がるたびに、条件のほうから先に落ちました。数字と条件を同じ行に書けば、落ちません」
大槻はしばらく黙り、それから別の話をした。
「去年入れた議事録の要約ツールも、同じ話か。あれは現場の慣れの問題だと聞いているが」
「慣れじゃないわ。形式が引き継ぎ方と合わなかっただけよ。決定事項・宿題・期限・未決の4つに分けて出すように変えたら、うちの課ではまた使うようになったもの」
「私のところには、利用率が1割を切った、という数字しか来なかった」
瀬尾は、2人が別のものを見ているのではなく、違う細かさと違う時間の幅で同じものを見ているのだと思った。大槻は月と四半期の数字で決め、村瀬は今日の一件一件で決める。どちらも、自分に届いた情報の範囲では正しかった。欠けていたのは、両方が同じ数字を見られる1枚だった。
3人は、5つの行を上から順に読んだ。いちばん長く止まったのは、5行目の「社内0人」だった。
「つまり、次に決めるのは、範囲を広げるか、確認を楽にするか、なんだな」
「確認の手間を数字で言えるなら、わたしも言いやすいわ。いままでは、大変なのよ、としか言えなかったもの。3行目の費用も、現場は知らされていないの。使うほどかかるなら、遠慮して使わない子も出てくるでしょう」
「経営会議には、これを出す。3割は、条件と同じ行に書いておけ。それと村瀬さん、会議で10分だけ、直接話してくれないか。要約を通さずに聞きたい」
大槻は紙を置き、瀬尾のほうを見た。
「悪い数字を先に持ってきてくれて助かった。会議の場で、ほかの誰かから聞かされるのがいちばん困る」
瀬尾は手帳に書いた。「数字は、条件と同じ行に書く。報告は上に行くほど、条件から先に落ちる」