六月十日 60ページの要件定義書
「営業の見積もり入力画面、宇佐美さんは1週間で作れると言っている。AIで作るから速いそうですな」
三部長会で約束した、営業の取り分だった。大川は反対しなかった。本導入を通すには黒田の賛成が要る。
「要件定義は、持田くんがAIで書けるだろう」
持田は生成AIに1行だけ打ちこんだ。「商社の見積もりシステムの要件定義書を作成してください。詳細に」。夕方には60ページができた。持田が読んだのは目次だけだった。
要件定義書 目次(抜粋)
- 3.4 多言語対応(英語・中国語・ベトナム語)
- 3.7 音声による見積もり入力
- 4.2 AIによる価格の最適化提案
取引先ごとの掛け率、締め日、端数の扱い、課長承認が要る金額。万年商事の見積もりに欠かせないものは、どこにもなかった。持田は営業をしたことがない。知らないことは指示できず、指示されないことはAIも書かない。
「さすがに早いな」
「常務のご指示が明確でしたので」
大川も目次しか読まなかった。読んで分からなければ、分からないと言わなければならない。分厚い資料は、読まずに褒めるためにある。
六月十二日 2日でできた試作
水野は開発支援AIで、見積もり画面の試作を自分で作った。1週間で何ができないのかを、現物で示すためだった。2日で動いた。取引先と品番と数量を入れると、合計が出る。
「2日でこれなら、1週間で全部できますよね」
「これは『動くもの』。『使えるもの』までには、まだ6つ残ってる」
ホワイトボード(水野の字)
- 異常時の動き ― 通信が切れたとき、同じ見積もりが2件登録されないか
- 権限 ― 一課の人に、二課の取引先の掛け率が見えていないか
- 整合性 ― 基幹の単価と食い違わないか
- 性能 ― 月末の集中に耐えるか
- 保守性 ― 作った人以外が直せるか
- 運用の受け皿 ― 止まったとき、誰に連絡するか
「AIは、知っている人の作業を速くする道具なの。掛け率が取引先ごとに違うと知ってるから、そう指示できた。指示しなかったことは出てこない。AIが書いた入力チェックも、本物のデータで突き合わせるまで信用しちゃだめ」
その夜、内田は持田に送った。「水野さん、見積もり画面を2日で作っていました」。6つの話は書かなかった。翌朝、持田は常務室で言った。
「情シスの試作で、実質もうできています」
宇佐美はすぐに見積もりを出し直した。範囲を「画面の作成」に絞り、期間は1週間のまま、金額を3割下げた。6つは、範囲の外に出た。
六月十九日 契約書
業務委託契約書(抜粋)
第8条(検収)甲は、納品物が正常に動作することを確認したときは、速やかに検収するものとする。
第10条(納品物)ソースコード一式。
「『正常に動作すること』が何件で、何件まで間違いを許すのか、書いてないですね。設計の資料も運用の手順書もない。これだと、1か所直すたびに先方に頼むしかありません」
そこへ影山が来た。
「常務案件です。月内に、とのことです」
須賀は判を押し、引き出しのメモに書いた。「六月十九日 検収条件・納品物について口頭で指摘」。指摘した記録さえあれば、あとで困るのは自分ではない。20年近く、そうやって自分の机を守ってきた。
「1週間」の見積もりに入っていないものは何だろう。それが抜けていたと分かったとき、誰の責任になるのか?
六月二十五日 部長の印
稟議書の情シス確認欄は、六月二十四日に回ってくることになっていた。平野はその日、有給を取った。夕方、稟議書は承認済みで戻ってきた。確認欄には平野の印があった。
「昨日、お休みでしたよね。この印は」
「押した覚えはないけど、押してあるなら、僕が押したんだろう」
平野は去年、出張のたびに困るからと、印を影山に預けていた。それを言えば、預けた自分の話になる。定年まであと9か月。何事もなく辞めたかった。
「直す人の話が契約のどこにもありません。止まったら、うちの部に来ます」
「水野くん、波風を立てないでくれ。来たら、そのとき考えればいい」
そのとき考えるのが誰なのかを、平野は言わなかった。昨日の日付に×を付けた。休んだ日にも、×は付く。
六月二十六日 夜
納品は七月三日。稟議書には、起案 持田、承認 大川、情シス確認 平野の名前が並んだ。中身を最後まで読んだ人はいない。
水野は控えに、6つを「七月三日以降に起きること」として写した。当たったら日付を足していく。当たらないことを願ってはいなかった。自分の見立てが正しかったと見せたい気持ちのほうが、少しだけ大きかった。
「承認 平野。印の持ち主は、押した覚えがないと言った。印を預かっていた人は、何も言わなかった」