五月二十日 データを選ぶ
PoCの対象は、受注FAXの読み取りと問い合わせの回答案に決まった。前の日、大川は影山に一言だけ言っていた。
「失敗は許されない。分かるな」
何をしろとは言わない。影山にはそれで足りた。影山は過去3か月分の注文書と問い合わせから、読ませる30件と聞かせる30件を選んだ。手書きを外し、旧品番を外し、「前回と同じ」とだけ書かれたものも外した。残ったのは、行儀のよい注文書だけだった。
アンシンテックの若い技術者が、遠慮がちに言った。
「本番に近いものも、少し入れたほうが……」
「本番は、本番でやればいいでしょう」
外した束は、共有フォルダの「整理済み」に入れた。その夜、影山は選んだ分と外した分の一覧を私物の記録媒体に写した。常務に言われてやったことは、いつか言われていないことにされる。そのときに自分を守る写しだった。
六月三日 デモ
「正答率、96%です」
「本導入だ。これで行こう」
「常務の英断ですな」
黒田は誰よりも大きく手を叩いた。持ち上げるだけ持ち上げておけば、落ちたときの高さも常務のものになる。
「30件は、どなたが、どういう基準で選びましたか。手書きの注文書は何件入っていましたか」
持田は影山を見た。影山は顔を上げなかった。答えたのは宇佐美だった。
「御社の業務に合わせて最適化した結果です。ご安心ください」
受注センターの古川は、画面の注文書に、自分が毎日頭を抱える種類のものが1枚もないことに気づいていた。言わなかった。本番でつまずけば、やはり自分が要る。
六月四日 受注センター
水野は古川の横で、その日のFAXを1枚ずつ見た。手書きの数字、廃番の型番、取引先ごとの略号。「前回と同じ。ただし緩衝材は薄いほう」。
「そこは長年の勘だ。書けるもんじゃない。こういうのは、たまに、だ」
水野が1か月分の記録を数えると、略号か「前回と同じ」を含む注文書は14%あった。7枚に1枚は、古川の頭を通らないと入力できない。AIが読めるのは、文字として書かれ、最新版が一意で、判断の基準まで書いてある記録だけだ。それに「前回と同じ」は、取引先がWeb発注で前回の注文を呼び出せば、そもそもFAXで来ない。読む工程を速くする前に、消せる工程がある。
「古川さんの判断を、少しずつ書き出させてもらえませんか。書いてあれば、古川さんが1週間休んでも回ります」
「考えとく」
古川は来年、役職定年を迎える。書き出された勘は、もう自分のものではなくなる。考えておくことはないだろう、と水野は思った。
PoCが「成功した」と報告されたとき、分かったことと、分からないことにされたことは何だろう?
六月五日 過去の「成功」
共有フォルダの奥に、過去の実証実験が4つあった。
過去の実証実験 報告書の結論欄
- 六年前 注文書の文字読み取り ― 「成功」
- 四年前 問い合わせのチャットボット ― 「成功」
- 三年前 伝票入力の自動化 ― 「成功」
- 二年前 出荷量の予測 ― 「成功」
本番になったものは1つもない。本番までの残作業の欄もない。担当した4人は全員、翌年に昇格していた。チャットボットの担当欄には、持田の名前があった。
「動いたところで報告して昇格すれば、その先は次の人の仕事になる。何と比べて、どこまで行けば成功で、どうなったら止めるか。始める前に決めないと、PoCは終わらない」
水野は経営会議の資料に1枚を足した。30件を誰がどの基準で選んだか。本番までに残る作業 ― 権限、監視、例外の受け皿、費用の上限、保守。そして、止める条件。内田はその下書きを、夜のうちに持田へ送った。
六月九日 経営会議
資料は持田の名前で出た。残作業の頁はなかった。
「常務のご意向を汲んで、少し整理しました。後ろ向きな頁があると、話が前に進みませんから」
水野は言い返さなかった。会議で言えば、常務の前で室長に恥をかかせた人間になる。消された頁の中身より、そちらのほうが長く覚えられる。
「PoCは成功した。これで行く」
「任せた」
結論は、お客様センターで回答案を4週間試すことと、営業の見積もり入力画面をアンシンテックに発注すること。受注FAXの読み取りは、議題から静かに消えていた。
廊下で影山が言った。
「『整理済み』のフォルダは、整理しておきました」
フォルダは空だった。水野は、その中身の一覧を控えに写していた。出せば、30件の選び方は証明できる。自分が常務の案件を嗅ぎ回っていたことも証明される。その晩、二次面接の案内が届いた。
「PoCの成功を決めたのは、PoCが始まる前に選ばれた30件だった。選んだ人の名前は、報告書のどこにもない」