九月一日 料亭

宇佐美は封筒を差し出した。

「来年の七月から、弊社の顧問にお迎えしたいと存じます」

「上期のうちに、全社の3年契約をまとめる。途中でやめる話が出たら、どうなる」

「ご相談いただければ、柔軟に対応いたします」

契約書の案には、途中解約なら残りの期間の利用料を一括で払う、と書いてあった。宇佐美は知っていて、大川は読んでいなかった。3年契約は大川の任期を2年以上越える。つまずいたとき引き受けるのは、そのとき会社に残っている人たちだ。大川はそれを考えたうえで、酒を注ぎ足した。

同じ週、黒田は対案を出すと言いふらしていた。AIの予算を各本部に配り、三部長会の取り分をはっきりさせる案だった。

九月八日 稟議書の下書き

「下書きでいいから、気楽に書いてみて。最後はこちらで整えるから」

整えたあとに誰の名前が付くかは分かっていた。それでも水野は書いた。書かなければ、もっとひどいものが出るだけだった。

稟議書 下書き(水野)抜粋

選定の判断軸 何を作らせるか → 間違えたときの影響 → データの機密度 → 件数 → 社内で維持できる体制、の順で絞る。製品の比較は最後。

導入前の確認8項目 4項目は答えが書けない。契約の前に調べる。

範囲 お客様センターの回答案に限定する。自動送信は止め、確かめる人の数を七月以前に戻す。

AIを使わない案 受注FAXの6割は上位40社から来ている。Web発注への切り替えを頼めば、読む量そのものが減る。

効果は毎月5つの数字で測る。三月末に基準へ届かなければ止める。

内田は、来月からAI推進室へ移る内示を受けていた。

「止めるのは失敗じゃないんだよ。届かなかったという検証の結果。過去のPoCが役に立たなかったのは、何が足りなかったのかを書かなかったから」

「でも、ぼくが移ったら、情シスの実務は水野さん1人ですよね」

「1人なら、件数のいちばん多い1つに絞る。AIに操作の権限を持たせない。相談先とやめ方を先に決める。できるのはそれくらい」

内田は申し訳なさそうな顔をした。その顔のまま、その夜も持田に下書きを送った。

止める条件が書かれない稟議書は、誰を守るのだろう?

九月十四日 経営会議

稟議書は持田の名前で、全社3年契約の案になっていた。範囲の限定と、AIを使わない案と、最後の1行が消えていた。

「止める条件なんて書いたら、失敗を前提にしていると思われるでしょう」

目標の欄は「全社のAI活用率を高める」。使った回数を数えれば毎月上がる。上がり続けるかぎり、止める理由は出てこない。

起案 持田、承認 大川、情シス確認 平野の印 ― 今度も平野が休んだ日に押されていた。法務確認の須賀の印の横には「指摘事項あり(別紙)」。途中解約の一括払いを指摘した別紙は、影山の机の上で外されていた。

対案を出すはずの黒田が、真っ先に手を挙げた。

「私は常務の案に賛成です。常務の集大成ですから」

前の晩に計算が変わっていた。3年契約がつまずくのは常務が去ったあとだ。そのとき常務の席にいるのが自分なら、立て直した人として名前が残る。

「常務に任せた」

可決された。効果を測る人と、届かなかったときに止める人の名前は、どこにも書かれなかった。

九月三十日 上期最終日

人事の発表が続いた。古川は三月末で役職定年。勘は1行も書き出されなかった。三好と内田は十月一日付でAI推進室へ。三好は営業の数字から逃げ切り、内田は望みをかなえた。影山は総務課長になった。相原の契約は3か月更新された。

平野が、めずらしく水野を呼んだ。

「僕も若いころは全部に口を出した。反対して、押し切られて、動かなくなってから、反対した僕が夜中まで直した。押し切った人は出世した。波風を立てても立てなくても、同じなんだよ」

「同じでしたか」

平野は答えず、カレンダーの十月をめくった。廊下では大川が水野を呼び止めた。

「よくやってくれた。俺は来年の六月までだが、あとは君たちの時代だ」

水野は頭を下げた。鞄には別の会社の内定通知が入っている。返事の期限は十月十五日。まだ署名していなかった。

十月一日 お客様センター

3年契約が始まった朝、壁には大川の業界紙の切り抜きが貼られ、派遣の3人がいた机は空いたままだった。始業前、水野は相原の席へ行った。須賀も来ていた。誰にも頼まれていなかった。

「毎月、5つの数字だけ取ります。誰にも出さなくていい。止めるべき月が来たら、分かるように」

「3人がいたときの早見表、取ってあります」

「わたしは、途中でやめるとき何を払うのか、条文を読み直しておきます」

通りがかった三好が手を振った。

「今日から推進室なんで。困ったら、ぼくに聞いてください」

名簿を貼った日の記録は、水野の控えにまだ残っている。三好はたぶん、もう忘れていた。

昼休み、最初の数字を入れた。九月の分で、これが基準になる。対象範囲41%、手直しが要った割合26%、社内で直せる人0。

「止める条件は、稟議書には書かれなかった。だから、わたしの控えに書く。誰にも頼まれていないし、書いても、たぶん誰も止めない」