なぜ歴史から始めるのか

本書は全31章にわたってビジネスAIの各領域を扱いますが、最初の章を歴史に充てます。理由は3つあります。

第一に、いま起きていることが初めての出来事ではないと知っておくことが、期待値の調整に効きます。AIは過去に2度、大きな期待とその後の停滞を経験しています。同じ形の期待が今回もかかっており、同じ形の失望が起きる領域もあります。

第二に、現在の技術がどの流れの上にあるかを知ると、何が本質的に新しく、何が以前からあったのかを区別できるようになります。需要予測や画像認識は数十年の積み上げがある領域で、生成AIのブームとは別の系譜です。この区別ができないと、実績のある技術を「新しくて不確か」と扱い、まだ検証が薄い技術を「実績がある」と誤認します。

第三に、「なぜ今なのか」という問いに答えられるようになります。技術の発明から実務での本格活用までには時間差があり、その差を埋めたのは技術以外の要因でした。この要因を理解しておくと、次に何が普及するかの見立てが立てやすくなります。

2度のブームと、そのつまずき方

人工知能という語が学術の場で使われ始めたのは1950年代です。第一次ブームの中心にあったのは探索と推論で、迷路を解く、定理を証明する、簡単なゲームで手を選ぶといったルールが明確に定義された問題では成果が出ました。しかし現実の問題は大半がそうではありません。「机の上のコップを取る」という作業にも、光の当たり方、物の重さ、周囲の障害物といった無数の条件が絡みます。枠が定まらない問題に手が届かず、1970年代に研究資金が縮小した時期は「冬の時代」と呼ばれます。

1980年代の第二次ブームは、別の方向から攻めました。専門家の知識をルールの形で書き下し、それを使って判断させる方法で、エキスパートシステムと呼ばれます。医療診断や設備の故障診断で実用化が試みられましたが、2つの壁に当たりました。専門家の知識をルールとして書き出す作業が非常に高コストだったこと。そして書き出したルールの保守が難しかったこと。ルールが数千に増えると、追加したルールが既存のルールと矛盾し、誰も全体を把握できなくなります。

この壁は、第7章で扱うDXの難所とまったく同じ構造です。暗黙知を明文化する作業のコストと、それを保守する体制の問題は、40年前から本質的に変わっていません。歴史の部分でここだけ覚えておけば足ります。

何が変わって、生成AIが来たのか

知識やルールを人間が記述する方向(記号主義)に対して、脳の神経細胞のつながりを模した仕組みにデータを与え、規則を人が書かずに学習させる方向(コネクショニズム)の研究も並行して進んでいました。後者は長く期待されながら成果が限られていました。理由は2つで、計算能力の不足と、学習に使えるデータの不足です。

この2つが解消された2010年代に、状況が変わります。画像認識の精度が従来手法を大きく上回り、同じ考え方が音声認識、そして自然言語処理へ波及しました。ここで実務上おさえるべき点があります。翻訳・文字起こし・画像認識は、生成AIのブームより前から業務に投入されていたということです。同じ「AI」という言葉でも、領域ごとに成熟度がまったく違います(第1章)。2017年に提案されたTransformerという構造は、文章全体の関係を一度に計算でき、かつ計算を並列に進められるという性質を持ちます(仕組みは第2章)。並列化できるということは、計算装置を増やせば学習規模を拡大できるという意味です。ここからモデルを大きくする方向の競争が始まり、2022年以降、対話型の製品が一般利用者にまで届きました。

産業へのインパクトで実務上重要なのは、精度が上がったことよりも専門家でなくても使える形になったことです。これが、AIの導入判断が情報システム部門だけの話ではなくなった直接の原因です。

技術マイルストーンの整理

AIの主要な流れ(細かな年次より、順序と因果関係を把握することが目的)
時期中心にあったもの限界となったこと
1950〜60年代探索・推論。「人工知能」という分野名の成立枠が定まらない現実の問題に届かなかった
1970年代研究資金の縮小(第一次の冬)期待に成果が伴わなかった
1980年代エキスパートシステム。知識をルールで記述記述コストと保守の困難
1990〜2000年代統計的機械学習。検索・推薦などで実用化特徴量の設計が人手に依存した
2010年代前半深層学習。画像・音声認識で精度が跳ねる大量のラベル付きデータと計算資源が必要
2010年代後半Transformerと大規模化。翻訳・言語処理の実用化学習コストの高騰
2020年代生成AIの一般利用。API経由での組み込み業務適用の設計・検証・ガバナンスが追いつかない

この表で見てほしいのは右の列です。限界となった要因は、技術そのものより「記述コスト」「保守」「データの整備」「検証と体制」に集中しています。本書の後半が組織・ガバナンス・法規制に大きく紙幅を割いているのは、この歴史的な傾向を踏まえたものです。

なぜ「今」ビジネス活用が本格化したのか

技術の発明から実務での本格活用までには、常に時間差があります。今回その差を埋めたのは、次の4つです。

計算コストの低下

学習には依然として大きな費用がかかりますが、使う側(推論)のコストは継続的に下がってきました。同じ処理を行う費用が下がると、採算が取れる用途の範囲が広がります。以前は費用が見合わなかった業務が、順次対象に入ってきているのが現状です。

モデル性能の向上

実務では「使えるか使えないか」の境界があり、性能がその線を越えた瞬間に用途が一気に増えます。長文の要約、複数の指示を含む作業、表形式のデータの読み解きは、この数年で線を越えた領域です。

周辺エコシステムの整備

これが最も見落とされやすい要因です。API、開発ツール、社内文書を参照させる仕組み、監視の道具、そして開発者コミュニティの知見。モデル自体は変わっていなくても、周辺が整うだけで実務投入の難易度は大きく下がります。歴史的にも、深層学習の普及を支えたのは理論の進歩だけではなく、計算装置とデータの整備でした。

社会的な認知と受容

技術の導入には、組織内の合意が必要です。「AIを使う」という提案が奇異に受け取られる状態と、当然の選択肢として扱われる状態では、社内調整のコストがまったく違います。2022年以降の認知の広がりは、この調整コストを大きく下げました。

ただしこれは両刃です。認知が広がったことで、検証の薄い提案も通りやすくなりました。同じ変化が、期待値の先行と拙速な導入の原因にもなっています(この側面は網羅裏之巻で扱います)。

現場のシーン架空の例

六年前、第一工場の品質保証課長の野口は、外観検査の自動判定を見送り、理由を書き残していました。機材と計算機の費用が見込める削減を上回ること、学習に使える不良品の画像が足りないこと。再検討の目安も、費用が下がったとき、少ない画像で学べる方法が使えるようになったとき、と書いてありました。二年目の四月、AI推進室の瀬尾は本社地下の倉庫でこの綴りを見つけます。同じ倉庫にあった七年前の業務自動化ロボットには、やめた理由がどこにも残っていませんでした。瀬尾は三か年計画の実施案に、検査の前提が変わったかを七月までに確かめる行を入れました。過去に見送った案件は、判断の前提となった費用と性能が変わっている可能性があるため、見送りの理由とともに記録しておくと再検討が容易になります。

歴史から読み取るべきこと

3点にまとめます。

  1. 停滞は技術の限界ではなく、周辺の未整備から起きた ― 記述コスト、保守体制、データ整備。いずれも今回も課題として残っています。
  2. 実績の長さは領域ごとに違う ― 需要予測・画像認識・音声認識は数十年、生成AIの業務適用は数年。同じ「AI」でも期待できる安定性が違います。
  3. 普及を決めたのは技術以外の要因だった ― コスト、周辺ツール、社会的受容。次に何が普及するかを見立てるときも、この3つを見るのが有効です。