十月八日 役員会議室
取締役会の資料は毎月15ページほどあり、AI推進室の報告はその後ろのほうに2ページだけ載る。推進室の室長代理になって半年の瀬尾奈々は、その2ページのために壁ぎわの椅子に座っていた。
AIの項目の1ページ目は、常務の大槻修がまとめた「AI活用の効果」だった。1行目には、全社員が使う社内チャット「コネクトAIアシスト」の効果として、提供元のクラウゼル・テクノロジーズが四半期ごとに届ける効果レポートの数字が、そのまま写してあった。
取締役会資料 AI活用の効果(上期)
コネクトAIアシスト 年間削減効果 4,800万円(提供元試算)
経理課 請求書処理 年間1,200時間削減
カスタマーサポート課 回答案の下書き 六月末の見直しで基準を達成し、継続
「三か年計画の初年度としては、順調に来ていると考えております」
手を挙げたのは、社外取締役の片桐玲だった。四月に加わった監査法人の出身者で、発言は少ないが、聞くときはいつも数字を一つに絞った。
「このAI投資の効果は、いくらですか」
「1行目にあります。年間4,800万円です」
「その数字の出どころを伺っています。何と何を掛けた数字でしょうか」
大槻が瀬尾を見た。瀬尾は手元の効果レポートをめくり、最後のページの小さな注記を読み上げた。
クラウゼル・テクノロジーズ 効果レポート 算定の前提
1日あたりの削減時間 20分(利用者アンケートより)× 利用者数 400名 × 年間稼働日 240日 × 時間単価 1,500円 = 年間 4,800万円
「1日20分は、利用者アンケートの回答です。使ってみて一日に何分くらい短くなったと感じるか、という設問でした」
「導入の前に、同じ仕事に何分かかっていたかの記録はありますか」
「……ありません」
「では、もう一つ。4,800万円は、来期の損益計算書のどの行に出てきますか。人件費が4,800万円減るのでしょうか」
「人を減らす話ではありません。浮いた時間で、ほかの仕事ができるようになる」
「浮いた時間で何をしたのかは、どこを見れば分かりますか」
答える人はいなかった。大槻が、少し声を強めた。
「結論から言えば、効果は出ています。現場からも、便利になったという声が上がっている」
「効果がないと申し上げているのではありません。いくらなのかが、この資料からは読めないということです。……契約を決めたときは、何と比べて選ばれましたか」
大槻は、ごまかさなかった。
「一月に、クラウゼルの黒江さんの話を聞いて、私が決めました。比べたものはありません」
「分かりました。次の取締役会では、金額でなくて結構ですので、測り方を出してください。数字は、測ってからで構いません」
瀬尾はうつむいて手帳を開いた。同じ4,800万円を、推進室の月報にも写していた。掛け算の中身を、一度も聞いたことがなかった。
同じ日の午後 AI推進室
情報システム課の係長で推進室を兼務する倉田誠が、ホワイトボードに掛け算を書き写した。隣では、同じ課の森拓海がノートパソコンでコネクトAIアシストの管理画面を開いていた。入社三年目で、推進室の手作業の多くを引き受けている。
「掛け算としては合ってる。困るのは、4つとも測った数字じゃないことだな。20分は感想だし、400名が240日、全員毎日使ってることになってる」
瀬尾は、クラウゼル・テクノロジーズの営業部長、黒江翔に電話をかけ、スピーカーに切り替えた。
「弊社の標準の算定方法でございます。導入効果をお示しする際には、業界ではもう常識の考え方かと存じます」
「アンケートに答えたのは、何名でしたか」
「126名さまです。その平均を、ご利用者数に掛けております」
「答えてくださるのは、よく使っている人のほうが多いですよね。それと、出てきた文章を確かめたり直したりする時間は、入っていますか」
「作成にかかるお時間の短縮を伺う設問ですので、確認のお時間は含んでおりません。ご心配でしたら、ログイン率と利用回数で定着をお示しするレポートもご用意できますが」
「ありがとうございます。ただ、使った回数は、減った時間とは別の数字なので」
電話を切ると、森が画面から顔を上げた。
「費用の側も見ました。レポートの費用の欄は、年額の利用料が一行あるだけです。情シスに来る使い方の問い合わせも、テンプレートの整理も、春の研修も入っていません。画像の読み取りは使った分だけ課金される設定で、経理課が請求書に使い始めた四月から、毎月伸びています」
「3年で並べないと比べられないな。利用料は毎年来るし、うちの手間は毎月出る。基盤の版が替わるたびの確かめ直しもある。社内の時間も金額に直して足す。効果は仮定を4つ掛けて大きくして、費用は一行だけ。どっちも、何を元にした数字かが書いてない」
「始める前に、何を効果として数えるか決めてなかったから、あとで一番大きく見える数え方が選ばれたんだね。誰かがずるをしたわけじゃなくて」
「測る仕組みがなければ、測らないほうが勝手に選ばれる。三月に並べた5件のPoCの報告書、覚えてるか」
「全部『技術的には実現可能』で終わってたやつ」
「あれから、推進室の報告書には『本番化までの残作業と工数』の欄を置いた。欄があると、埋めるために誰かが測る。変えたのは技術じゃなくて書式だった」
「効果のほうにも、その欄がいるってことか。『確認を含めた時間』と『導入前の数字』の欄」
「年間4,800万円の削減」は、誰の財布の、何が減る話だろう?
十月十四日 AI推進室
1週間ほどして、経理課長が推進室に来た。脇に、ファイルを一冊抱えていた。
「資料の2行目、うちの1,200時間の件です。悪い話は早いほうがいいと思いまして」
経理課 請求書処理の効率化 算定(四月作成)
導入前:請求書1枚あたり20分(担当者の見込み)× 年間3,600枚 = 年1,200時間
導入後:読み取りに要する時間(1枚数秒)のみ計上
削減見込み:年間 約1,200時間
「四月に担当が作った見込みです。読み取りは1枚数秒だから、ほぼ丸ごと浮く、という計算でした。ところが、月末の残業が減らない。おかしいと思って、九月の1か月、全員に一枚ずつ時間をつけてもらいました」
記録では、読み取りを使った請求書は、確認と直しを入れて1枚平均14分かかっていた。瀬尾は電卓を叩いた。20分から14分を引いて6分。年3,600枚で360時間。報告の3割だった。
「しかも、20分のほうは誰も測っていません。本当は15分だったのかもしれない」
倉田が記録の束をめくり、手を止めた。
「時間を食ってるのは、読み取りじゃなくて確かめ方ですね。手書きの請求書は読み取りが崩れて、結局全部打ち直してる。これは手で打つより遅い。いつもの取引先の決まった書式まで、全項目を原本と突き合わせてる。それと、読み取った結果の列の並びが表計算と違うから、毎回貼り直してます」
「並びは、設定で直せるものですか」
「書き出しの設定で揃えられます。……で、それ誰が直すの、って話ですけど、うちでやります。そのかわり、手順は書いて残します」
「読み取りを使えた請求書の割合も、並べて出したほうがいいです。今は全部の枚数を分母にしているので、手書きを外したら、どれだけの範囲の話なのかが見えなくなります」
経理課長は、しばらく記録を見ていた。
「手書きを外すと、読み取りを入れた担当が気にしますね。失敗したみたいで」
「外す条件を、先に書いておきませんか。『確認を入れて手入力より遅い種類の請求書は、読み取りの対象から外す』。そう書いてあれば、外すのは担当の失敗ではなくて、決めたとおりの実行です」
経理課長はうなずき、それから、少し言いにくそうに付け足した。
「片桐さんの質問にも、うちの分なら答えられます。1枚6分浮いても、給料は同じだけ払っています。お金として減るのは、月末の残業が減ったときだけです。浮いた時間を何に使うかは、決めていませんでした」
瀬尾は、ホワイトボードの4,800万円を見た。あれは浮いた時間に時給を掛けた「値打ち」で、そのままでは、会社が払うお金はどこも一円も減らない。減るとすれば残業代か外注の費用で、そうでなければ、浮いた時間を当てる仕事を先に決めたときだけだ。
記録を見るかぎり、確かめ方を変えれば、決まった書式の請求書の確認は半分近くに縮みそうだった。実測がなければ、その余地も見えなかった。
十月二十九日 役員会議室
次の取締役会の資料から、4,800万円の行は消えていた。大槻が、自分で消した。代わりに、推進室の一枚が入った。
AI推進室 AI投資の効果の測り方(案)
- 時間の効果は、確認と修正を含めた合計時間で測る。浮いた時間を何に当てるか(残業の削減・外注の置き換え・後回しの業務)を、部署ごとに先に決める
- コネクトAIアシスト:各部で件数の多い業務を3つずつ選び、十一月の1か月、使った場合と使わない場合の時間を確認込みで記録する。これを今後の基準値とする
- 報告には、対象範囲の割合(その業務のうちAIを使えた件数の割合)を必ず並べる
- 費用は3年間の総額で比べる。利用料と従量課金の伸びに、検証・教育・運用の社内工数を金額に直して加える
- 新しい投資は2段階で承認する。第一段階は検証の小額(データの調査と比較試験まで)、第二段階が本番化の予算。第一段階の申請書に、中止する条件を書く
- 選定の基準は、提案を受ける前に作る
分からないこと:導入前の所要時間(記録がなく、今後も取れない)/4,800万円のうち、確認の時間を引いて残る分/浮いた時間が何に使われたか
経理課の例:報告 年1,200時間 → 確認込みの実測 年約360時間(九月)。確認の手順を見直し、十一月分から測り直す
片桐は一枚を読み終えると、ペンの先で「分からないこと」の欄を指した。
「導入前の所要時間は、今後も取れない、と書いてありますね」
「はい。二月に、測らずに使い始めました。今から取れるのは、同じ業務を、使った場合と使わない場合で比べることだけです。それで分かる範囲しか、分かったとは書きません」
「十一月の実測がまとまったら、ここに出します。数字が小さくなっても、そのまま出します」
片桐は大槻のほうを一度見てから、瀬尾に向き直った。
「分からない、と書いてある報告のほうが、わたしは信用できます。……経理課の360時間は、手順を変えるとどうなりそうですか」
「減る見込みです。ただ、見込みは見込みとして書きます。十一月分を測ってからお答えします」
片桐はそれ以上聞かず、手元の資料に何かを書きつけた。推進室の報告に片桐がペンを入れるのを、瀬尾はそのとき初めて見た。
会議のあと、廊下で大槻が瀬尾を呼び止めた。
「経理課長に礼を言っておいてくれ。あれを先に持ってきてもらえなければ、今日も4,800万円を読み上げていた」
推進室に戻ると、倉田が十一月の記録用紙を作っていた。「確認・修正の時間」の欄が、いちばん広く取ってあった。
瀬尾は手帳に書いた。「『いくら減るか』より先に、『何を、いつ、誰が測ったか』を書く。測っていない欄には、分からないと書く」