十一月二十五日 AI推進室
その通知は、契約の窓口になっている総務課を経由して、AI推進室の室長代理、瀬尾奈々の机に回ってきた。
クラウゼル・テクノロジーズ「コネクトAIアシスト ご契約更新のご案内」
平素より格別のご高配を賜り……。二月一日からの更新期間につきまして、基盤モデルの改定および新機能の標準搭載に伴い、ご利用料金を改定させていただきます(現行比 約4割増)。なお、期間満了の一か月前までにお申し出のない場合、ご契約は改定後の料金にて1年間自動更新となります。
全社員向けの社内チャットは、二月一日で使い始めてちょうど1年になる。4割という数字を読み上げると、推進室に顔を出していた常務の大槻修が眉を寄せた。
「4割だと? だったら乗り換えればいい。同じような道具は、ほかにいくらでもあるだろう」
「乗り換えるのに何が要るか、洗い出します。解約の申し出は十二月末が期限なので、それまでに結論をお持ちします」
「結論から頼むぞ」
大槻が出ていくと、情報システム課の森拓海が、管理画面に残っているものを書き出し始めた。入社三年目で、推進室の手作業の多くを引き受けている。一時間後、森のメモは一枚になった。
森のメモ 管理画面にしかないもの
- テンプレート 約300本(各部が作成。書き出しの機能はなく、画面から一本ずつ写すしかない)
- 登録した社内ナレッジ(規程のQ&A、製品のFAQ、旧型番と新型番の対応表など。元のファイルは共有フォルダにあるが、どの版をどう分けて登録したかの記録は管理画面の中だけ)
- 朝凪専用モデルの設定(営業部の過去の提案書で追加学習したもの。学習済みのモデルはクラウゼル側にある。持ち出せるかは不明)
朝凪専用モデルは、五月のコンペでクラウゼルの営業部長、黒江翔が勧めたものだった。社内文書の検索としては採られなかったが、夏に営業部の依頼で、提案書の下書き用にコネクトAIアシストの追加機能として設定されていた。
「全部移すと、テンプレートを写して一本ずつ動きを確かめるだけで、自分一人ならひと月では終わりません。ナレッジの登録し直しと、全社への使い方の案内も要ります。社内の時間を金額に直すと、値上げ分の1年ぶんを超えます」
情報システム課の係長で推進室を兼務する倉田誠が、腕を組んだ。
「移るほうが高いってことだな。値上げを断れるかどうかは、契約書の条件じゃなくて、手元に何が残ってるかで決まるんだよ。うちの手元には、ほとんど何もない」
倉田はホワイトボードの端に、5段の階段を書いた。
ホワイトボード(倉田の字) 依存の段
- 呼び出して使うだけ
- そのサービスにしかない機能を使う ― テンプレート
- データを預けている ― 登録した社内ナレッジ
- 業務の手順が、その画面になっている
- 自社のデータで追加学習したモデルがある ― 朝凪専用モデル
「4段目って、どういうこと?」
「営業所の電話受付だよ。お客さんが古い型番で聞いてきたら、チャットに打って新しい型番を引いてる。手順書にもそう書いてある。道具を替えたら、手順書から直すことになる」
「うちは5段全部に乗ってる。段を上がるのが悪いんじゃない。テンプレートは便利だったし、提案書の書きぶりを揃えたいなら、それは振る舞いの話だから、追加学習は筋が通ってた。まずいのは、上がってるって誰も数えてなかったことだ」
瀬尾は、先月の取締役会を思い出した。4,800万円が本当なら、4割上がっても払えるという話になる。その数字は、いま十一月の1か月をかけて測っている最中だった。
翌日 本社応接室
黒江は、約束の時間ちょうどに来た。値上げの説明は滑らかだった。
「基盤としてお使いいただいているモデルの提供元が、料金を改定いたしまして。弊社も心苦しいのですが、あわせて新機能を標準でお使いいただけるようにしております」
「基盤のモデルは、クラウゼルさんのものではないんですね」
「はい。弊社のソリューションですと、複数の基盤から最適なものを選んでご提供しております。基盤は随時新しい版に更新してまいりますが、サービスの名称はそのままですので、ご不便はないかと存じます」
名前が同じまま、中身が入れ替わる。森が、手元のノートに小さく書いた。
「乗り換えも含めて検討しています。テンプレートと登録したナレッジは、どういう形で取り出せますか」
「データはいつでもお取り出しいただけます。標準的な仕組みですので、移行も容易かと存じます」
「取り出せるファイルの形式と、取り出しにかかる作業を、具体的に教えていただけますか。それと、朝凪専用モデルは、契約が終わったあとどうなりますか」
「……そちらは確認のうえ、改めてご回答いたします。規約は標準的なもので、他社さんとも同じ内容かと存じます。3年のご契約にしていただければ、改定の幅は抑えられるかと。まずはご更新いただいて、細かい条件はそのあとで詰めさせていただければ」
黒江を見送ったあと、倉田が言った。
「『まず更新して、あとで詰める』が、いちばん危ない。更新したら、また1年分、テンプレートもナレッジも向こうに積み上がる。預けたあとの交渉は、今よりもっと弱い」
「3年契約の値引きは?」
「単価はこの先下がるかもしれないし、中身は勝手に替わる。3年縛られるのが、値引きの幅に見合うかだな。他社と同じ規約だって言われても、うちに合ってるかは別の話だ。条文を読もう」
十一月二十七日 総務課の小会議室
月に一度の、顧問弁護士の相談枠の日だった。法務部のない朝凪精機で契約と規程を兼任する総務課主任の戸田美和が、契約書と利用規約を机に広げた。顧問弁護士の早坂がその隣に座り、戸田は、いつものように条文を声に出して読んだ。
コネクトAIアシスト 利用規約・個別契約(抜粋)
(稼働の保証)本サービスの停止とは、乙の設備において応答が返らない状態をいう。計画停止、および第三者が提供する基盤の障害による停止は除く。月間の稼働率が所定の水準を下回った場合、乙は当該月の利用料の一部を返還する。
(基盤の変更)第三者が提供する基盤技術の変更または停止に起因して本サービスの機能が変更または停止した場合、乙はその責任を負わない。
(保証の否認)乙は、本サービスの出力の正確性、完全性および有用性を保証しない。
(損害賠償)乙の賠償の総額は、直近12か月に甲が支払った利用料の額を上限とする。
(覚書・専用モデル)本モデルは、本契約の有効期間中、甲のみが利用できるものとする。
「条文上は、この保証、いわゆるSLAが約束しているのは、止まったときに利用料の一部を返すことです。業務が止まった損害を埋めるものではありません。一般論としては、止まっても困らない作りは、使う側で用意するものです」
「八月に、朝の1時間くらい、返事が遅すぎて使いものにならなかった日がありました。あれは、停止に数えられていないということですか」
「『応答が返らない状態をいう』。遅くても返ってくれば停止ではない、と読めますね」
「そう読めます。それから基盤の変更の条文です。上流の提供元で何かが変わって機能が変われば、契約上はクラウゼルさんの責任ではなくなる。実質的には、御社が負うということです。黒江さんのおっしゃった基盤の更新も、ここに入るでしょう」
「出力の正確性は保証しない、か。確かめるのはうちの仕事だって、契約にも書いてあるわけだ」
戸田は、入力したデータの扱いの条文を、早坂が挙げた6つの点に一つずつ当てていった。
戸田のメモ 入力したデータの扱い
- 学習に使うか ― 使わないと書いてある
- 学習以外に使うか ― 「品質改善のため利用することがある」。範囲は書いていない
- 人が内容を見るか ― 書いていない
- 保存期間 ― 「当社所定の期間」
- 保存場所 ― 書いていない
- 再委託先 ― 「業務の一部を第三者に委託できる」。委託先は書いていない。基盤の提供元に渡るかも不明
戸田は最後の数ページを二度めくってから、顔を上げた。
「契約が終わったとき、データをどう返すかの条文がありません。ここ、書いてないですね」
「専用モデルの覚書も同じです。条文上は、期間中に御社だけが使える、としか書いていない。誰のものか、終了後に使えるか、持ち出せるかは、どこにもありません。一般論としては、学習に使った提案書の権利と、できあがったモデルの権利は、分けて考える必要があります」
「自動更新の申し出は一か月前まで。反対に、ほかのサービスを併用してはいけない、という条項はありません」
「それは助かる。2つを使い分ける道は、契約の上では残ってるってことだ」
契約書のどの条文が、「乗り換えられない」状態を作っているのだろう?
十一月三十日 常務室
瀬尾は、一枚の方針を持って常務室に入った。結論は1行目に書いてあった。
AI推進室 コネクトAIアシストの更新について
- 今回は1年の短期で更新する。値上げは受け入れ、3年契約の値引きは受けない
- 更新の条件として、覚書に3点を書き込むよう求める。(1)テンプレート・登録ナレッジ・設定を、決まった形式で取り出せること (2)基盤の変更・料金の改定・機能の廃止を事前に通知すること (3)朝凪専用モデルの帰属と、契約終了後の扱い
- 移行の準備を始める。テンプレートと「よくある質問と期待する回答」の一覧(検証用の質問集)を、自社の共有フォルダで管理する。新しいテンプレートは、まず自社側で作る
- 止まったときの備え。使い方を「すぐ業務が止まる」「その日のうちに戻ればよい」「数日待てる」に分け、すぐ止まるものだけ、代わりの経路と手作業の手順を書いて一度試す
- 次の契約からは、総務課の契約前確認表を使う
「結局、4割は払うのか」
「今回は払います。いま移ると、値上げより高くつきます。この一年は、来年払わなくてもよくするための一年にします」
「2社と契約して、両方使えばいいんじゃないのか。それなら止まっても困らん」
「全部を二重にすると、確かめる手間も費用も2倍になります。すぐに止まって困るのは、営業所の電話受付で型番を引く使い方だけでした。そこだけ、元の対応表を開く手順を書いて、来週、営業所で一度やってみます」
大槻は方針の紙をしばらく見ていた。
「一月に、私が一人で決めた契約だ。入るときに、出口を見ていなかった。……これでいい。黒江さんには、値段の話ではなく条件の話だと、はっきり伝えてくれ」
推進室に戻ると、森がテンプレートを一本ずつ自社の共有フォルダに写し始めていた。営業部で入社三年目の小野寺蓮が、ノートパソコンを抱えて顔を出した。
「営業のテンプレート、70本くらいは自分が作ったやつっす。元の文面は自分のメモに全部残ってるんで、そっちから出せます」
戸田からも、ファイルが一つ届いた。規程について社員から聞かれた質問と、戸田が返した答えを、3年分ためた表だった。
「これ、そのまま検証用の質問集の元になります。同じ質問を今のチャットに流して答えを残しておけば、乗り換え先を試すときにも、中身が替わったときにも比べられます。自分がやります」
「名前が同じまま中身が替わったら、気づけるのはそれだけだからな。質問と期待する答えは、向こうの画面じゃなくて、こっちの手元に置く」
夕方、瀬尾は覚書に求める3点を黒江に送った。「社内で確認のうえ、改めてご回答いたします」と返事が来た。同じころ、戸田の確認表が一枚にまとまった。
総務課 AIサービス 契約前確認表(抜粋)
- データを取り出せる形式と期間(導入の前に確認する)
- 追加学習したモデルの帰属と、終了後の扱い
- 入力データの扱い6点(学習利用・学習以外の利用・人による確認・保存期間・保存場所・再委託先)
- 他社のモデルの再提供か。上流の変更を責任外とする条項の有無
- 停止の数え方(応答の遅さを含むか)と除外事由
- 料金改定・仕様変更・モデル廃止の通知期間と、そのときの解約の可否
- 自動更新の期限、損害賠償の上限、出力の正確性の扱い
- 競合するサービスの併用を制限する条項の有無
瀬尾は、確認表のいちばん上の行をしばらく見ていた。一月にこの一行を聞いていれば、今日の交渉はずっと楽だったはずだ。
瀬尾は手帳に書いた。「乗り換えられるかどうかは、契約書より、手元に何が残っているかで決まる。出口の条文は、入る前に読む」