三月二十三日 常務室
黒江翔が差し出した名刺には、クラウゼル・テクノロジーズの社名がなかった。三月二十日付でクラウゼルを辞め、独立したのだという。肩書きは「AI導入コンサルタント」になっていた。
「御社の一年は、ずっと拝見してまいりました。三か年計画の二年目は、全社展開を一気に進める局面かと存じます。顧問として、戦略全体を見させていただければと」
常務の大槻修の机には、もう一つ届け物があった。「AI戦略アドバイザー」を名乗る講師、一条隼人の著書で、帯には「断言する。三年後、AIを使わない会社は選ばれない」と刷ってある。取締役会向けの講演の案内が挟まっていた。
大槻に目で促されて、AI推進室の瀬尾奈々は口を開いた。
「黒江さん、いくつか伺わせてください。これまでの導入のうち、ご自身で手を動かされたのはどこまでですか。事例でお使いになったデータは何件で、どこから来たものでしたか。対象は業務の何割で、うまくいかなかったときは、何が原因だと想定されますか」
黒江は少し間を置いた。
「手を動かしたのは、提案書までです。設定や保守は技術の者が。データの件数は、確認のうえ改めてお答えします。失敗の想定は……正直に申し上げると、営業のころは、導入後の方のお仕事だと思っておりました」
「最後にもう一つ。同じことを実現する別の方法は、何がありますか」
「……それは、これまで書いたことのない欄かもしれません」
大槻は、しばらく名刺を眺めていた。
「顧問はやめておく。ただ、案件ごとに、範囲と代わりの案を書いた提案なら聞く。それで来てくれ」
黒江は一礼して帰った。売り込むこと自体は悪いことではない。確かめられる形で来てくれれば、それでよかった。
一条の本は、推進室を兼務する情報システム課の係長、倉田誠がぱらぱらとめくった。
「事例が20社。件数も期間も、一つも書いてない。まあ、本を書くのは悪くないよ。講演を聞くなら、手を動かした範囲から聞けばいい」
「講演はどうする。取締役会の前にと言ってきている」
「お願いするなら、先に書面で3つ伺いませんか。ご自身が手を動かした範囲、本の事例のデータの件数と出所、うまくいかなかった事例。答えをいただいてから決めればいいと思います」
「疑ってかかるのか」
「疑うためではなくて、確かめるためです。答えられる方なら、そのほうが話は早くなります」
三月二十五日 AI推進室
取締役会に出す一年の総括を、瀬尾は3つの欄に分けた。うまくいったこと、止めたこと、分からないこと。書き進めるほど、3つ目の欄だけが伸びた。
三か年計画 一年目の総括(AI推進室)
うまくいったこと
- CS課の回答案づくり。毎月5つの数字で測り、基準を満たし続けた
- 社内文書検索。対象を現行の手順書と製品仕様書に絞り、所有者と更新の決まりを付けた
- 自作ツール47本の台帳。禁止ではなく登録にした
- 評価セット200件の毎月の実行。上流のモデル更新による変化に気づけた
止めたこと
- 全社一斉の業務アシスタント(五月)。対象を絞った文書検索に変えた
- 応募書類の一次選考。要約と整理までに変えた
- 台帳のうち、すぐに止めた自作ツール
- 回答案と社内文書検索のつなぎ目(三月)。処理を分け終わるまで
分からないこと
- 回答案で浮いた時間が、何に使われたか。人件費が減ったかどうかは、まだ言えない
- 全社員向けの社内チャットで、何が良くなったか。分かっているのはログインした人の割合だけ
- 画像検査の小さな試験が使えるかどうか。判断できるだけの不良品の画像がまだない
- 次の上流のモデル更新がいつ来て、何が変わるか
- 規程を手順に埋め込んだあと、現場で守られているか
- 三月の事故の指示文を、誰が入れたか
- 「間接業務の半分」の分母。業務ごとの件数と時間を、まだ全部は数えられていない
カスタマーサポート課長の村瀬早苗が、欄を読んで一行足してほしいと言った。
「下書きがいつもある状態で育った新人が、十年後、回答案の間違いに気づけるか。それも、分からないのよ。わたしはノートに書きながら20年かけて覚えたけど、あの子たちには、書く前に答えが出てくるから」
瀬尾はその行を足し、隣に、若手が判断の理由を説明する場を月に一度作る、と小さく書いた。分からないことの横には、次に確かめる方法を並べておく。それが、この欄の決まりだった。
情報システム課の森拓海は、4つの軸の自己診断を集計していた。部長と担当者に同じ項目を別々に答えてもらった結果だった。
成熟度の自己診断(「はい」の数)
データ整備度 1/6 ・ 組織体制 5/8 ・ ガバナンス 6/9 ・ 活用範囲と継続性 6/9。「主要な定義が部署間で一致している」は、部長の多くが「はい」、担当者の多くが「いいえ」。担当者の理由の欄には、締め日の扱いの違いが挙がっていた。
「いちばん低いところが全体の速さを決めます。どの案件も、最初にデータの調査から始まっていました。次の一手はここです。自分がやります」
営業部の小野寺蓮も、台帳の手伝いの延長で呼ばれていた。
「去年、瀬尾さんに『別の方法は?』って聞かれて、マクロって答えたじゃないすか。見積もり、いまもマクロで回ってるっす。台帳じゃ公式化のほうに入ったけど、止まってないんで」
「それ、うまくいったことの欄に書いていい?」
「AIじゃないっすよ」
「AIを使ったかどうかは、欄の名前に入ってないから」
倉田が、横から画面をのぞいた。
「ついでに言うと、お前も今は社内の『AIに詳しい人』だからな。ベンダーとの窓口も、更新の知らせも、お前に集まってる。黒江さんに聞いた5つ、自分にも当てとけよ」
瀬尾は総括の前に一ページを足した。来年度から、ベンダーとの打ち合わせには森か倉田が必ず同席する、とも書き添えた。
総括の1ページ目(5つの問いへの答え)
- 推進室が自分で手を動かしたのは、評価セット・台帳・自己診断の集計まで。回答案と文書検索の中身はベンダーが作った
- 数字の出どころは、CS課の確認記録(AI案と担当者確認の2列)と、過去の問い合わせから選んだ評価セット200件
- 今年AIが本番で動いた間接業務は、問い合わせの回答案と社内文書検索の2つだけ
- うまくいかない場合の想定は「分からないこと」に、代わりの方法を採ったものは「うまくいったこと」に書いた
一年目の総括に、瀬尾はなぜ「分からないこと」の欄を作ったのだろう?
三月二十七日 取締役会
3つの欄を映すと、会議室は静かになった。最初に口を開いたのは、社外取締役の片桐玲だった。監査法人の出身で、どの数字にも出どころを聞く人だった。
「分からない、がこれだけ書いてある報告は初めて見た」
瀬尾は、叱責の前置きだと思った。片桐は続けた。
「上の2つの欄が信用できる、ということです。分からないことを分からないと書く人の、分かったという行は、確かめてあるはずですから。念のため伺います。『基準を満たし続けた』の出どころは」
「CS課の毎月の確認記録です。AI案と担当者確認の2列から出しています。1ページ目に書きました」
「で、二年目は何をやる。三年で半分、は変えるのか」
瀬尾は、書き直した計画の一枚を映した。
三か年計画 二年目(案)
目標 ― 件数の多い2業務から始める。見積書の作成と、請求書の照合。どちらも「確認を含めた1件あたりの時間を半分にする」。AIを使うかどうかは問わない。
進め方 ― 着手前に業務を一日観察し、基準値を測ってから手段を決める。導入前の確認項目のうち答えられないものを、最初の調査にする。製品の比較は最後。最初の3か月は、両業務のデータの棚卸しと定義の統一に充てる。
止める条件 ― 効果は毎月5つの数字で測る。着手から6か月で基準に届かなければ止め、止めた理由を次の業務に渡す。中止は検証の結果として報告する。
「製品の比較が最後なのは、五月の反省です。3社の提案を並べるところから入りかけました。先に決めるのは、何を出させるか、間違えたときの影響、データの機密度と状態、件数と費用、直せる人、規制。製品はそのあとです」
倉田は、大槻のほうを見て続けた。
「それと、一年前の月末集計、覚えてますか。業務を一日見たら、3つのシステムから手で書き出してるだけでした。設定を一つ足して終わった。観察してから手段、はあれです」
「三年後にも人が担い続けるものは、何ですか」
「残るものは決まっています。業務として正しいかの判断、何を効果とするかの定義、データが正しいと言えること、人に対する判断、送信や削除のような取り返しのつかない操作の承認、そしてリスクを受け入れるかどうかの決定です」
社長が、計画の一枚を指で叩いた。
「AIに、を消したのか」
「はい。半分にするのは、確認を含めた時間です。AIで届いても、設定を一つ足して届いても、同じ成果として数えます」
社長はしばらく黙り、それでいい、とだけ言った。大槻が、腕を組んだまま続けた。
「他社はもうやってるぞ、が私の口癖だった。今年は、悪い知らせを先に持ってくる部下に何度も助けられた。二年目はこの案でいく」
三月三十一日 夜 第二会議室
会議室の隅のホワイトボードには、一年以上前に倉田が書いた5つの軸が、まだ消されずに残っていた。何をするAIか。どれくらいの大きさか。どこで動くか。単体か組み合わせか。答えを返すだけか、操作までするか。
瀬尾は、机に2枚の紙を並べた。一枚は、去年の三月に出した稟議書の最後の一行。「効果は毎月5つの数字で測る。六月末に基準へ届かなければ止める」。もう一枚は、四月の年度初めに配られた計画の表紙。「三年で間接業務の半分をAIに」。
四月、倉庫の奥で見つけた七年前の自動化ロボットの端末は、いまも同じ棚にある。あのとき瀬尾は、号令の数字を、業務ごとの見直しの時期と、過去の導入で残ったもの・消えたものの表に置き換えた。1年かけて、その表に行が増えた。
書き直した二年目の計画では、「AIに」の3文字が消え、「半分」には、何の半分かが書き足されていた。止める条件の一行には、止めた理由を次へ渡す、が付け足されていた。
倉田が、紙コップのコーヒーを2つ持って入ってきた。
「来年はもっと大きい話が来るぞ、って去年言ったよな。来たな」
「来たね。で、それ誰が直すの、って今年は何回聞いた?」
「数えてない。分からない欄に足しとけ」
瀬尾は笑って、手帳を開いた。1ページ目には、一年以上前の年頭挨拶の一言が書いてある。「各部で、何かやれ」。最後のページに、今日の一行を書いた。
「分からないと書いた行が、次の一年の最初の仕事になる」