二月二十日 総務課
AI推進室の室長代理、瀬尾奈々は、総務課の机で24ページの束を受け取った。AI利用規程である。二日前、第一工場とCS課を回った帰りの車で、常務の大槻修が「責任の話は、規程のほうを見直させる」と言った。その宿題だった。
規程は四月、推進室ができたのに合わせて作られた。社内ポータルの記録では、対象の社員全員が「読みました」にチェックを入れている。
「作ったのは私です。研修でもらったひな形に、各部から『これも入れておいて』と言われるたびに足したら、この厚さになりました」
総務課主任の戸田美和は、法務部のない朝凪精機で、契約と規程を兼ねている。
瀬尾はページをめくりながら数えた。「してはならない」で終わる禁止事項が31。「適切に判断する」「十分に注意する」が14回。コネクトの操作説明が、画面の写しつきで6ページ。承認済みサービスの別表は、更新日が四月のままだった。
戸田が条を声に出して読んだ。
AI利用規程(抜粋)
利用者は、機密情報を入力してはならない。機密情報に当たるか否かは、利用者が適切に判断する。
別表に定めるサービス以外を利用する場合は、所定の手続きを経るものとする。
AIの出力に関する最終責任は、利用者が負う。
「『所定の手続き』。……どこにも定めてないですね。迷ったときに誰に聞けばいいかも、書いてないです」
「申請は、これまでに何件来ましたか」
「ゼロです。様式がないので、来ようがありません」
情報システム課の係長で推進室を兼務する倉田誠が、ポータルの記録を持ってきた。規程を開いてから「読みました」を押すまで、半分の人が1分かかっていなかった。
「24ページを1分。チェックが埋まってるのは、読んだ証拠じゃなくて、押した証拠だな」
「禁止を並べても、使う量は減らない。黙って使う人と、怖くて使わない人に分かれるだけだ。工場の班長は、後のほうだろ」
休憩室の班長は、規程に「最終責任は利用者」とあるらしいから、聞かないのがいちばん安全だと言っていた。規程は、読まれないまま効いていた。
二月二十四日から 各部
瀬尾は、一月に自作ツールの台帳を手伝ってくれた営業部の小野寺蓮と、2日かけて各部を回った。聞いたのは3つだけだった。規程でいちばん大事なことは何か。今日扱ったデータは、どの区分か。迷ったら誰に聞くか。
「ぼくも規程の場所、知らなかったっす。チェックは入れましたけど」
経理課長の答えは慎重だった。
「取引先の名前が入った表が、社内限りか禁止か分からないんです。だから経理では、AIに入れないことにしました」
営業部の若手は、その逆だった。
「商談メモの要約は、コネクトでやってます。先方の担当者の名前も入ってますけど、会社のサービスだし、禁止とは書いてないんで」
開発課は、承認済みの一覧にないサービスを使っていた。
「海外の取引先の英文仕様書は、公開の翻訳サービスで訳してます。十月に総務へ使っていいか聞いたら、返事は四週間後でした。そのあいだにも仕様書は届くので」
営業部と購買課が契約している翻訳サービスとは、別のものだった。
CS課でだけ、答えがそろった。
「規程は読んでないわよ。でも区分は言えるの。去年の三月の一枚を、回答案の画面の横に貼ってあるもの。毎日目に入るものは、覚えるのよ」
カスタマーサポート課長の村瀬早苗の机では、公開・社内限り・禁止の3行の紙が日に焼けていた。
推進室に戻って、瀬尾はメモを一枚にまとめた。
聞き取りのメモ(二十四日・二十五日 21人)
- 規程でいちばん大事なことを説明できた 2人
- 今日扱ったデータの区分を答えられた 6人(うち5人がCS課)
- 迷ったときの相談先 「総務」「情シス」「上司」「聞かない」に分かれた
- 承認済みの一覧にないAIサービスを業務で使っていた部署 4(翻訳・文字起こし・画像づくり)
「慎重な人は使うのをやめて、そうでない人は境界のそばで使ってる。どっちも、規程が決めてくれないところを自分で決めてるんだよね」
「区分を答えられたのが、規程を読んでない課だけか。読んだかどうかじゃない。手順の中にあるかどうかだ」
二月二十六日 顧問弁護士の相談枠
月に一度の相談の日だった。開発課の件は、この枠まで待ってもらっていたのだと戸田は言った。
戸田は、顧問弁護士の早坂の前に一枚の紙を置いた。聞き取りのあと、用途ごとに「何のデータを、どこへ送り、誰が何を判断するか」を一行ずつ書いたものだ。瀬尾と、情報システム課の森拓海も同席した。
用途ごとの一枚(総務課 戸田)
- CS課の回答案 ― 問い合わせの本文(顧客の氏名・連絡先を含む)を汀システムへ。担当者が確認して送る
- 社内文書検索 ― 現行の手順書と製品仕様書をアストラム・データへ。読む人が判断する
- 英文仕様書の翻訳 ― 取引先の仕様書を公開の翻訳サービスへ(一覧になし)。開発課が判断する
- 契約書の確認支援(総務課で検討中) ― 契約書を候補のベンダーへ。総務課が判断する
「一般論としては、用途ごとに関わる法律が違います。ひとまとめに『AIの法律』で考えないほうがいい。一行ずつ見ましょう」
翻訳の行で、早坂は手を止めた。
「著作権は、入れる側と出す側を分けて考えます。これは入れる側ですが、その前に、取引先との秘密保持の契約です。外部のサービスに渡してよいかは、そちらで決まります」
戸田が契約書の写しを出し、声に出して読んだ。
「『第三者に開示してはならない』。……外部のサービスや委託先をどう扱うかは、書いてないですね」
「条文上は、渡すことが開示に当たるかどうかが論点です。書いていないなら、取引先の法務に確かめるのが順序です。出す側は、生成した文章や画像を社外に出す場合ですね。似たものがないかを確かめる工程を置いてください」
「個人情報は、個人情報保護法と、所管の委員会が出しているガイドラインとQ&Aが一次情報です。八月に戸田さんから聞かれた、伏せれば扱いが変わるか。一般論としては、伏せる処理をしたから自動的に変わる、とは言えません。元に戻せるかどうかも含めて、個別に見ます」
瀬尾は、大槻から転送されてきたセミナーの案内を出した。「国内でもAIの法律が成立。未対応の企業はリスクに」。
「国内のAIの法律は、一般論としては、推進のための法律という性質です。事業者の義務は、個人情報保護法や著作権法など、今ある法律から来ます。『対応が必要』と言われたら、何の義務がどこから来るのかを聞いてください。最新は所管の公表情報で確かめましょう」
「国の事業者向けのガイドラインは、拘束力はありませんが、規程の目次に使えます」
「先月、工場長から、社員ごとのログインの記録を出してほしいと言われました。社内のデータなので、出してもいいでしょうか」
「社員の記録も、個人のデータです。社内向けだからと省かずに、お客さんのデータと同じ水準で、何に使うかを先に決めてください。採用のように人に対する判断に使う用途も、作る前にご相談を。技術の検証が済んでからだと、やり直しになりがちです」
「人事課長が、書類選考の話をしていました。来たら、最初にこちらへ回します」
「月に1回の枠のあいだに迷ったら、どこに聞けばいいでしょう」
「急ぐものは、私に電話をください。ほかにも、所管の役所の相談窓口、商工会議所の専門家相談、業界団体があります。取引先から求められた条件なら、取引先の法務に根拠を聞くのが先です。相談先がないから確かめない、がいちばん高くつきます」
最後の行は総務課自身の案件で、契約書から危うい条項を拾い出すサービスだった。提案書にはこうあった。
契約書の確認支援サービス 提案書 3ページ
個人情報保護法に準拠した設計です。
戸田は先週、「確認した結果として、設計の何を変えましたか」と照会していた。返事は「特に変更はございません」だった。早坂がサンプルの契約書の最後のページを開くと、署名欄の下に、取引先の担当者の氏名と電話番号、メールアドレスが並んでいた。
「条項を読むのに、担当者の連絡先は要りませんね。送る範囲から外せるなら、外したほうがいい」
森がその場でベンダーの技術者に電話をかけた。送る前に署名欄と連絡先を消す処理を一つ足せば済む、という答えだった。
「『準拠』の一言で済ませていたら、この処理は入らなかったですね。いつ、誰が、何を見て、何を変えたか。確認の記録は、この形で残します」
全員が「読みました」にチェックした24ページと、CS課の画面の横の一枚。誰も読まない規程と守られる規程の違いは、どこにあるのだろう?
三月二日 常務室
瀬尾は、3ページの改定案ともう一枚を持って、常務室に入った。
「結論から頼む」
「規程を24ページから3ページにします。代わりに、中身を仕事の手順の中に置きます。全員が同意した規程を説明できたのは、21人中2人でした」
AI利用規程 改定案(3ページ)の骨子 推進室・総務課
- 入力してよい情報 ― 公開/社内限り/禁止の3段階。区分ごとに社内の例を載せる
- 使ってよいサービスの一覧 ― 毎月更新する
- 始め方は3つ ― 登録のみ(承認済みのサービスを公開の情報で使う。3行で当日から)/簡易確認(社内限りの情報を扱う用途、自作ツール。5営業日以内に回答)/正式審査(新しいサービス、禁止区分の情報、下の5項目のどれか。10営業日以内に回答)。申請書には「出力の確認方法(誰が、どう確かめるか)」を必ず書く
- 責任 ― AIの出力を業務に使った結果の責任は、使うことを決めた人と組織が負う。確かめる人には、出典など確かめるのに必要な情報を渡す
- 高リスクの判定 ― 個人情報か取引先の機密を扱う/人に対する判断に使う/出力が社外に出る/人の承認なしに送信・更新・削除をする/止まると業務が止まる。一つでも当たれば正式審査。承認なしに操作する仕組みは、それだけで高リスク
- 迷ったときの連絡先 ― AI推進室。相談や報告をしたことを理由に、不利に扱わない
- 見るもの ― 毎月は費用・利用者数・修正率の3つ。年に1回、サービス・自作ツール・権限を棚卸しし、規程を見直す。退職・異動の手続きに権限整理を一行足す
- 禁止 ― 5つに絞る
「3ページで足りるのか。他社はもっと厚い規程を作ってるぞ」
「厚さは、守られている証拠になりません。製品の名前や操作の説明は、すぐ古くなるので規程の外に出します」
「責任の条は、『使うことを決めた人と組織』か。組織というのは、俺だな」
「はい。班長さんが怖がっていたのは、確かめようのないものの責任を、一人で負うことでした。確かめる材料を渡さずに、責任だけ渡すのはやめます」
「保険はどうだ。代理店から、AIの事故に備える保険の案内が来ていた。入っておけば済むだろう」
「どんな事故が補償されるかは商品ごとに違って、一定の管理をしていることが条件の項目もあります。保険は、管理の代わりにはなりません。入るなら、5項目に当たる用途を並べてから条件を聞きます」
「短くするのはいい。だが、3ページでも誰も読まなかったらどうする」
「読まなくても、使うその場で出会うようにします」
瀬尾は、もう一枚を出した。
規程を手順に埋め込む(推進室案)
- コネクトの入力欄の上に、区分と連絡先を一行で出す
- ポータルに、登録だけで始められる3行の入口を置く
- 迷ったときの連絡先を、規程の1ページ目の1行目に書く
- 届いた問い合わせは毎月まとめて、区分の例に足す
- 年に1回、二月の相談枠で規程を見直す(早坂弁護士・総務課・推進室)
「改定は四月一日付で出す。手順のほうは待たなくていい。今日から始めろ」
三月三日 AI推進室
翌日の昼、倉田はクラウゼルの管理画面に、入力欄の上へ一行の案内を出す設定を見つけた。
コネクトAIアシスト 入力欄の上の一行
入れてよいのは「公開」「社内限り」まで。個人情報・取引先の機密・人事の情報は入れない。迷ったら AI推進室(内線215)へ。
「これで、24ページのうち毎日読まれるのは、この一行になった」
区分の例の最初の版は、戸田が3年分ためてきた、規程についての質問と答えの表から起こした。「取引先の担当者の名前が入った商談メモ」は禁止の例の1行目に入り、名前を除けば社内限りで使える、と添えた。
「例は毎月足すんだろ。で、それ誰が直すの」
「私です。推進室に来た問い合わせは、私にも写しをください。月末にまとめて足します」
夕方、ポータルの入口に最初の申請が届いた。開発課長からの、英文仕様書の翻訳だった。新しいサービスで取引先の機密に当たるので、正式審査に乗る。回答期限の欄には十営業日後の日付が入り、戸田は秋に作った契約前の確認表を開いた。
森は、高リスクの5項目に、連絡先・申請の経路・責任の明文化・棚卸し・退職時の権限整理を加え、はい・いいえで答える確認の表に起こしていた。
「動いている仕組みにも、この表を当てたいです。CS課の回答案は『出力が社外に出る』に当たります。先月、社内文書検索ともつないでいますし」
「回答案は、本導入のときに、送信は人って決めてあるよね。いま動いているものは、四月の棚卸しでまとめて当て直そう。まずは入口から」
「分かりました。棚卸しの一覧に入れておきます。自分がやります」
最後に瀬尾は、ポータルの「読みました」のチェック欄を3つの問いに替えてほしいと戸田に頼んだ。今日扱うデータはどの区分か。迷ったら誰に聞くか。使った結果の責任は誰が負うか。
瀬尾は手帳に書いた。「規程は、読ませるものではない。使うその場で目に入り、迷ったら聞けるところに置く」