八月 情報システム課
盆休みの前の週、情報システム課の奥の机に、共有フォルダの一覧を印刷した紙が積み上がった。AI推進室の室長代理になって4か月の瀬尾奈々は、その厚みを見て、印刷を頼んだことを少し後悔した。
六月に、アストラム・データの社内文書検索を、対象を絞って試すと決めた。社員が質問すると、社内の文書から該当する箇所を探して答えを返す仕組みである。何を探させるかを決めるには、まず社内に何があるかを知らなければならなかった。
「共有フォルダ全体で、約12テラバイトです。ファイルの数は、途中で数えるのをやめました」
画面の数字を読み上げたのは森拓海だった。情報システム課の入社三年目で、推進室の実務を手伝っている。隣で、係長の倉田誠が紙の一枚を指で叩いた。推進室を兼務する、瀬尾の同期である。
「これ見ろよ」
共有フォルダの一覧(第一工場/品質保証/検査手順/外径測定)
- 最新版.xlsx
- 最新版_修正.xlsx
- 最新版_修正2.xlsx
- 最新版_修正2_本当の最新.xlsx
- 旧_使わない.xlsx
「本当の最新、って書いてあるんだから、これが最新なんじゃないの?」
「更新日時は、『修正2』のほうが3日新しいんです」
「本当の最新を作ったあとで、誰かが修正2のほうを直したんだろ。どっちが正しいかは、中身を読んでも分からない。決めた人に聞くしかない」
「決めた人って、誰?」
「それが書いてあれば、こんな名前にはならないんだよ」
森は、1週間かけて拾ったことを一枚にまとめていた。
共有フォルダ棚卸しのメモ(森)
- 同じ文書の版が複数ある。どれが現行かは、フォルダのどこにも書かれていない
- 手順書の一部は、印刷した紙に赤で直しを入れてスキャンした画像。直しは画像の中にしかなく、文字として読み出せない
- アクセス権がばらばら。退職者のアカウントに編集権限が残っている。営業所のフォルダは全社員が読めるが、同じ見積書の本社側の写しは課長以上しか読めない
- 個人情報が混ざっている。問い合わせ対応の記録に、顧客の担当者の氏名と携帯番号。古い社員住所録の写しが3か所
- 製品仕様書の台帳で、「廃止日」が空欄の行が多い
「空欄ってことは、まだ売ってる製品なんだよね?」
「それが分からないんです。現行なのか、書き忘れなのか、廃止の手続きをしないまま後継品が出たのか。空欄が何を意味するのか、台帳のどこにも書いてありません」
「空欄があること自体は、どこの台帳にもある。困るのは、空欄の意味を誰も書いてないことだ」
瀬尾は、一覧の厚みをもう一度見た。
「検索の仕組みを入れる話だと思ってたけど、ほとんどフォルダの話だね」
「去年のCS課もそうだっただろ。回答案を作る設定そのものは、わりとすぐ動いた。時間を食ったのは、村瀬ノートを打ち直して、3万スレッドのメールの型番の書き方をそろえて、それをつなぐところだ。手間のほとんどは、AIの外にある」
同じ週 第二会議室
アストラム・データの営業部長の間宮が、試行の進め方を説明しに来た。大きな画面に、社員が質問を打ちこむと手順書の一節が出てくる流れが映った。
「社内の文書に書いてあることなら、何でも答えられるようになります。データ整備は後で大丈夫です。AIが自動で整理しますので。既存の社内文書を、そのまま活用できます」
「12テラバイト、まずは全部入れてしまいましょう。使いながら整っていきます。文書を直したら、リアルタイムで反映されます」
瀬尾は、印刷した一覧の一枚を差し出した。「本当の最新」のある一枚だった。
「こういう重複こそ、AIの得意なところです。似た文書をまとめて、新しいほうを優先して答えます」
「新しいほう、というのは更新日時ですか。この二つは、古いほうが正しいかもしれないんです」
「そこは、日付で絞りこむ設定もございますので」
「画像で保存された手順書は、どうなりますか。手書きの直しが入っているものです」
「文字の読み取りは標準で付いています。精度は、原本の状態によりますね」
「個人情報も、自動でマスキングします。伏せてしまえば個人情報には当たりませんので、ご安心ください」
倉田が、瀬尾にだけ聞こえる声で言った。
「使いながら整う、ね。で、それ誰が直すの」
手元の見積書には、項目が4つ並んでいた。
アストラム・データ 見積書(抜粋)
- 初期設定 一式
- 社内文書の取り込み(共有フォルダ全体) 一式
- 月額利用料
- 操作説明会(1回)
備考 既存の社内文書をそのまま活用できます。
データを整える作業は、一行もなかった。間宮に悪気があるようには見えなかった。間宮は、棚卸しの一覧をまだ見ていないのだ。見ていないものの工数は、見積もりに載らない。載らなかった工数は消えるのではなく、朝凪精機の誰かの仕事として残る。
「一つ、書面でお答えいただけますか。試行を始めるまでに、当社側で必要になる作業を挙げてください。工数の見込みも添えて」
「当社側、ですか。基本的には、フォルダの場所を教えていただければ」
「技術の方にも確かめていただけると助かります。うちのフォルダのどの問題が仕組みで軽くなって、何が残るのかを知りたいんです」
「承知しました。技術の者に確認させます」
間宮が帰ったあと、森がぽつりと言った。
「版が混ざったまま入れたら、古い手順を根拠にした答えが返ってきますよね。使いながら整う、というより、使いながら間違いが見つかる、だと思います」
八月下旬 返信
返信は、盆休みが明けた週に届いた。差出人は、アストラム・データの技術部だった。
アストラム・データ 技術部からのメール
ご照会の件、試行の開始までに御社側で必要となる作業は、次の3点と考えます。
- 現行版の特定 ― 同名・類似の文書が複数ある場合、どれを検索の対象とするかを御社で決めていただく必要があります。日付で絞りこむことはできますが、どれが正しいかの判断は当社の仕組みではできません。
- 画像で保存された手順書の作り直し ― 文字の読み取りはできますが、手書きの修正や表の中の文字には誤りが残ります。回答の根拠に使う文書は、文字で作り直すことをお勧めします。
- 更新担当の決定 ― 改訂のたびに、新しい版への差し替えと旧版の除外を行う方を決めていただく必要があります。
いずれも当初のお見積もりには含まれておりません。対象とする文書の数によっては、開始の時期に影響いたします。
誠実な返事だった。そして、3つとも朝凪精機の仕事だった。森が対象の文書数から工数をざっと積み上げると、試行に着手できる見通しは3か月先に動いた。照会にかかったのは、メール一往復だけだった。
瀬尾はその日のうちに、常務の大槻修に報告した。三か年計画の責任者である。
「3か月遅れる? 結論から頼む」
「遅れるのではなく、最初から3か月かかる仕事でした。見積もりに入っていなかっただけです」
「アストラムは、後でAIが整理すると言っていたんだろう」
「AIにできるのは、似た文書を並べたり、画像から文字を読んだりするところまでです。どれが正しい版かは、うちでしか決められません」
大槻は腕を組み、しばらく天井を見ていた。
「それなら、この際だ。12テラ全部を整理する全社プロジェクトを立ち上げろ。他社はもうやってるぞ」
「全部を整える前に、何に使うかを決めさせてください。使い道が決まっていないと、どこまで整えたら終わりなのかが決まりません。終わらないプロジェクトになります」
「……1週間で案を持ってこい」
「データ整備は後でいい」という説明で、後回しにされているのは何だろう?
八月の最後の週 第二会議室
案を作る打ち合わせには、第一工場の品質保証課長の野口剛と、総務課主任の戸田美和にも来てもらった。手順書の多くは野口の課が持っている。契約と規程は戸田の担当だった。
全部を整えない理由を瀬尾が説明しようとしたとき、森が先に口を開いた。
「五月に営業から、過去3年の受注データで需要予測ができないか、と相談があったんです。データは販売管理にそろっているから、すぐできるだろうと」
「出してみたら、二年前に商品コードの体系を切り替えていて、前と後で同じ商品が別のコードでした。対応表は切り替えのときに作ってあったんですが、その後に増えた商品が入っていなかった」
「見た目は3年分つながってるのに、中身はつながってない、ってこと?」
「はい。対応表を直すのに、見込みの3倍かかりました。予測の話は、まだその先に進んでいません」
「こういうとき、商品マスタを全部統合しようって話になるんだよ。でも統合は大工事だ。対応表を一本作って、持ち主を決めて、商品を足すたびに一行足す。たいていはそれで足りる。あのときは、持ち主が決まってなかった」
瀬尾は、ホワイトボードに一行書いた。「対象 現行の手順書 約1,800件、製品仕様書 約600件」。検索させる用途に要るのは、この2種類だけだった。
「手順書の現行版を、机の上で決めるのか。現場を見てから言ってくれ」
「だから、決めるのは持っている課にお願いしたいんです。検査の手順書なら、品質保証課に」
野口はしばらく一覧を眺めていた。「本当の最新」の一枚で、指が止まった。
「うちの班長のファイルだ。正しいのは修正2のほうだよ。……決めるのは、うちの仕事だな。改訂したら、その日のうちに差し替える。旧版は消さずに、別のフォルダへ移す」
「それと、『現行』の意味を決めておけ。承認印のある版か、現場で実際に使っている版か。うちでは、ずれていることがある」
「それで足ります。リアルタイムで反映、と言われましたけど、手順書が変わるのは改訂のときだけです。改訂した日に差し替えが済めば、使う側は困りません」
戸田は、アストラムの提案書を声に出して読んでいた。
「『マスキング処理により、個人情報には該当しなくなります』。……根拠は、書いてないですね。伏せたら扱いが変わるのかどうかは、顧問の早坂先生に確認します。所管の役所が公表している資料も見ておきます」
「確認を待つあいだも進められるように、個人の名前や連絡先が入った文書は、最初から入れないのはどうですか。手順書と仕様書を探すのに、お客さんの携帯番号は要らないので」
「送らなければ、伏せ方で悩む必要もない。それと権限だ。検索は、聞いた人が誰かを見ないで答えを返す。見ていい範囲は、入れる前に単位を決める。一度入れてから絞るのは、ほぼ無理だ」
「単位って、部署ごと?」
「文書の種類ごとでもいい。手順書は全社員が読める、仕様書は開発と品証と営業だけ、とかな。退職者の権限も、そのときに外す」
「権限の洗い出しは、自分がやります」
その週の終わり、瀬尾は一枚の案を大槻に出した。
社内文書検索 試行の対象(案) 推進室 瀬尾
- 対象は現行の手順書 約1,800件と製品仕様書 約600件に限る。共有フォルダのほかの文書は入れない
- 文書ごとに所有者の課を一つ決める。何を「現行」とするかも、所有者が決めて書いておく
- 改訂したら、所有者がその日に差し替え、旧版は「旧版」フォルダへ移す
- 閲覧の単位は取り込む前に決める。手順書は全社員、製品仕様書は開発・品質保証・営業
- 個人を識別する情報を含む文書は、対象に入れない
- 画像だけで保存された手順書は、対象にするものに限り文字で作り直す
大槻は、12テラのうちどれくらいかと聞いた。件数で言えばごく一部です、と瀬尾は答えた。
「小さいな。……だが、誰が持つのかが書いてあるのはいい」
その夜、瀬尾は手帳に書いた。
「『データ整備は後で』と言われたら、当社側でやる作業を挙げてもらう。後に回されるのは、たいていうちの仕事だ」