二月五日 役員会議室
経営会議の資料は、秋から一枚増えていた。表紙をめくると、大きな数字が一つだけ載ったページが出てくる。
経営会議資料 2ページ「AI活用ダッシュボード」
全社AI活用率 87%(前月比+4ポイント)
部署別 総務課 96%/営業部 94%/第一工場 88%/第二工場 85%/……/カスタマーサポート課 58%
※活用率=当月に1回以上ログインした社員の割合
常務取締役の大槻修は、そのページを開いたまま、指先で数字を叩いた。社長から全社のAIを任されている決裁者である。
「87だ。一年前は、契約したばかりで誰も触っていなかった。よくここまで来た」
「気になるのはCS課だな。いちばん先にAIを入れた部署が、いちばん低い。どうなってるんだ」
AI推進室の室長代理として末席にいた瀬尾奈々は、ページのいちばん下の注記を読んだ。数字の出どころは、全社員向けの社内チャット「コネクトAIアシスト」の管理画面だった。
瀬尾は、同じ数字を3つの資料で見ていた。ベンダーのクラウゼル・テクノロジーズが毎月送ってくる報告では「月間アクティブ率(当月に1回以上ログイン)」。DX推進委員会の資料では「利用率」。経営会議では「AI活用率」。誰も嘘はついていない。欄に収まるように、名前を少しずつ短くしただけだった。委員会の報告書式には、秋に「対象範囲」の欄を作った。だが、このページは別の担当者が別の書式で作っていて、数字を一つ置く枠しかない。
報告が一段上がるたびに、条件から先に落ちていく。去年の三月、「平均31%削減」だけが経営会議に上がりかけたときと同じ形だった。
「常務、この数字は、ログインした人の割合です。業務で使ったかどうかは入っていません。それにCS課は、回答案づくりを汀システムの画面でしていますので、この数字には――」
「細かい話はあとだ。ログインしてるなら、使ってるんだろう。CS課の理由は、来週までに聞いておいてくれ」
議題は次へ移った。
二月九日 第一工場 休憩室
画像検査の試験の打ち合わせで、瀬尾は情報システム課係長の倉田誠と第一工場へ行った。倉田は瀬尾の同期で、推進室を兼務している。約束の時刻まで、休憩室で待つことになった。
部屋の隅に共用のパソコンが一台あり、その上の壁に掲示が貼ってあった。
休憩室の掲示(工場長名)
全員、月に1回以上、コネクトAIアシストにログインしてください。部署別の活用率は経営会議に報告されています。
昼休みの終わりぎわ、組立の班長が、そのパソコンの前で作業着の袖をまくった。
「月末になると、ここに列ができるんですよ。ログインして、今日の天気でも聞いて、閉じる。使わされてるんです」
「お仕事で使ってみたことは、ありますか」
「一回だけ、組立の手順を聞いてみました。それらしい答えは出ましたよ。でも、それで組んで不良が出たら、誰のせいになります。規程には『最終責任は利用者』って書いてあるらしいじゃないですか。だったら、聞かないのがいちばん安全です」
瀬尾は返す言葉を探した。怠けているのではなかった。責任の所在が分からないまま使わされるなら、使わないことで自分を守る。筋の通った判断だった。
第一工場の品質保証課長、野口剛が入ってきて、掲示を顎で示した。
「本社の資料だと、うちは88なんだろう。ログインはな。仕事で使ってるやつは、片手もいない」
「うちも秋に、検査報告書の下書きに使うのをやめた。型番の書き方が合わなかった。報告はしてない。やめたと書けば、数字が下がるだけだ」
打ち合わせを終えて工場の外に出ると、倉田が小さく言った。
「ログインを数えれば、ログインが増える。それだけだな」
「常務は、あれを『活用』だと思ってるんだよね」
「そう読める名前がついてるからな。で、あの数字が上がって、誰の何が楽になったの」
二月十二日 常務室
三日後、瀬尾は常務室に呼ばれた。先客がいた。クラウゼル・テクノロジーズの営業部長、黒江翔である。テーブルには提案書が一部だけ置かれていて、宛名は大槻だけだった。
クラウゼル・テクノロジーズ「全社定着化プログラム」ご提案書 1ページ
現場の抵抗を乗り越え、活用率100%へ。
(1)部署別活用率ランキングの毎月掲示 (2)未ログイン者への自動催促 (3)管理職研修「変化への抵抗にどう向き合うか」 (4)工場向けオプション「検査記録AI分析」― 検査記録から不良の傾向を自動で抽出し、品質会議の資料を作成
「工場さんとCS課さんの数字が伸びないのは、現場が変化を嫌っているだけかと存じます。どちらの会社さんでも最初はそうでして。トップが本気をお見せになれば、半年で数字は変わります。業界ではもう常識で」
「工場の方には、もうご説明されましたか」
「まずは経営のご判断をいただいてから、と考えております。現場へのご説明は、弊社が責任をもって」
黒江はノートパソコンを開いた。整った表に検査記録が並び、ボタンを一つ押すと、数秒でグラフと要約が出た。「三号ラインの夜勤帯で、寸法不良が増加傾向」。大槻が、おお、と声を出した。
「この検査記録は、どちらのデータですか」
「弊社でご用意したサンプルです。一般的なデータで十分お分かりいただけるかと存じます」
「うちの記録で動かすとしたら、どの項目を、どの細かさで、何年分お使いになる想定でしょうか。それが今、どこに、どんな形であると見ておられますか」
「そこは導入後のデータ整備の段階で、御社の情報システム課さんとご相談しながら、と考えております」
「うまくいかないのは、どういうデータですか」
黒江は少しだけ間を置いた。
「……手書きの記録ですと、読み取りの段階で精度は落ちるかと存じます」
正直な答えだった。そして第一工場の検査記録は、紙と表計算の併用だった。
黒江が帰ると、大槻は提案書を閉じずに言った。
「瀬尾くん、少し意地が悪かったんじゃないか。現場を説得する手間が省けるなら、悪い話じゃないだろう。他社はもうやってるぞ」
「この提案書には、うちのデータのことが一行も書いてありません。それに、休憩室で聞いた話は『抵抗』とは違いました」
瀬尾は、掲示と班長の言葉と、野口の「片手もいない」を、そのまま伝えた。大槻の眉が寄った。
「常務、一日だけ、現場に来ていただけませんか。午前は第一工場、午後はCS課です」
「結論から頼む。行けば何が分かる」
「87%が、何を数えた数字なのかが分かります」
大槻は手帳を開き、六日後の欄に線を引いた。
「活用率87%」は、何を数えた数字だろう。そして、何を数えていないだろう。
二月十八日 第一工場とCS課
大槻は作業着を借りて、朝の第一工場に立った。案内は野口だった。休憩室の掲示の前で、大槻は足を止めた。
「工場長の名前か。……元をたどれば、俺が会議で『低い部署は理由を』と言ったからだな」
検査場では、検査員が紙の記録用紙に数値を書きこんでいた。表計算に写すのは夕方だという。野口が棚から古い綴りを抜いた。
「記録の項目は、五年前に変えてる。その前と後は、そのままじゃつながらない。何年分をどう揃えるか、うちで揃えたことはない」
「黒江さんの分析は、これを読むのか」
「読むなら、まずそこからだ」
昼休みには、班長が大槻に直接、責任の話をした。大槻は最後まで口を挟まずに聞いた。
午後はCS課だった。カスタマーサポート課長の村瀬早苗は、窓口に20年いる。村瀬は課員の画面を大槻に見せた。問い合わせを開くと、汀システムの回答案と、参照した手順書の名前が並んで出る。
「うちがコネクトにあまりログインしないのは、当たり前なのよ。回答案はこっちの画面だもの。こっちは毎日、一人で何十回も使ってるわ」
「じゃあ、あの58%は」
「数えている場所が違うのよ」
隣の席の課員が、旧型の製品についての問い合わせを開いていた。回答案は新版の手順書を引いてくる。課員は棚から旧版の手順書を出して、該当の箇所を書き直した。
「旧型のときは、いつもこうです。5分くらいですね。もう慣れました」
「それは、報告に上がっているのか」
「上がってないわね。しのげているうちは、誰も報告しないのよ。報告するほどのことじゃないと思ってるから。上がるのは、しのげなくなったとき。そのときは『使えない』の一言になるの」
村瀬は、課の月次報告を一枚渡した。対象範囲、確認を含む所要時間、1件あたりの費用、例外の発生率、直せる人の数。本導入のときから毎月つけている5つの数字に、6つ目の欄として修正率が加わったばかりだった。
「去年、村瀬さんに言われたな。議事録の要約ツールは、慣れの問題じゃなくて形式だったと」
「決まったこと、宿題と担当、期限、決まっていないこと。形式をその4つにしたら、使う人は戻ったのよ。でも、その話が常務のところに届くまで、3か月かかったでしょう」
同じ日 夕方 帰りの車
本社へ戻る車の中で、大槻はしばらく窓の外を見ていた。
「瀬尾くん。来月から、あのページは差し替えだ。ログインの数は後ろのページに回せ。表には、AIを使っている業務ごとに、村瀬さんのところの5つの数字を出す。成果の横には、必ず対象範囲を書け」
「承知しました。休憩室の掲示は、どうしますか」
「外させる。低い部署に理由を聞くのもやめる。それと、やめたと報告した部署の評価は下げない。俺の名前で出す。野口くんのところが検査報告書でやめた理由は、次に始める部署がいちばん欲しい話だろう」
瀬尾は、中止の報告を一枚にまとめる書式を提案した。対象の業務、やったこと、結果、止めた理由、次にやるなら何を変えるか。大槻はうなずき、もう一つ付け足した。
「経営会議の最初の30分を、現場の担当者にやる。課長の要約じゃなくて、使っている本人に、月に1回、直接話してもらう。3か月も待っていられるか。班長の言っていた責任の話は、規程のほうを見直させる」
「黒江さんの提案は、どうされますか」
「断りはしない。どのデータを何年分、今どこにどういう形で。それを書いてから、野口くんと一緒にもう一度来てくれと伝える」
信号で車が止まった。大槻は前を向いたまま言った。
「会議で言いかけたことは、次から最後まで言え。止めたのは俺だ」
その夜、瀬尾は手帳に書いた。
「数字を渡されたら、まず『何を数えましたか』と聞く。数えたものは増え、数えなかったものは見えなくなる」