事例は、条件を伏せると別のものになる
「同業種で導入実績があります」。この一言が判断材料になるのは、条件が揃っている場合だけです。事例は、条件を伏せるだけで別のものに変わります。
事例紹介そのものは有用な情報です。問題になるのは、成立した条件が省かれる場合です。同じ処理でも、データの状態と体制が違えば結果は変わります。条件が示されない事例は、参考にはなっても判断材料にはなりません。
型1 ― PoCを本番導入として紹介する
最もよく見られる変形です。試験的に動かした結果が、稼働している事例として紹介されます。
表現の上では区別が難しいことがあります。次の表現はいずれも、本番稼働を意味しません。
- 「導入」 ― 試験導入を含み得ます。
- 「実証」「検証」 ― 明示的にPoCです。
- 「活用を開始」 ― 開始時点の情報であり、継続しているかは不明です。
- 「効果を確認」 ― 測定した範囲が示されていません。
確認の2問
表の網羅版 第9章「プロジェクトマネジメント・投資対効果」でも触れた質問です。この2問は答えを曖昧にしにくく、しかも失礼になりません。
- 「その仕組みは今も動いていますか」
- 「稼働から何か月経っていますか」
稼働期間が短い事例ばかりの場合、運用段階の課題(保守・費用・精度の劣化)についての知見はまだ蓄積されていないと考えるのが妥当です。これは相手の能力の問題ではなく、時間の問題です。
型2 ― 特殊条件の隠蔽
成功した事例には、たいてい成立の条件があります。省かれやすい条件を挙げます。
| 条件 | 省かれると生じる誤解 | 確認する質問 |
|---|---|---|
| 対象範囲の割合 | 業務全体が対象だと受け取る | 全業務の何割を対象にしましたか |
| データの状態 | 自社でも同じ条件だと受け取る | 何年分・どの粒度のデータを使いましたか |
| 事前の整備工数 | すぐ着手できると受け取る | データ整備にどれだけかかりましたか |
| 運用体制 | 追加の人手が不要だと受け取る | 運用に何人が関わっていますか |
| 確認工程 | 全自動だと受け取る | 人が確認する工程は残っていますか |
| 例外の扱い | 例外がないと受け取る | 自動処理できない案件はどう処理しますか |
| 費用 | 提示された単価が総額だと受け取る | 1件あたりの実測費用はいくらですか |
この7項目のうち、最初の2つが最も重要です。対象範囲とデータの状態が一致しなければ、同じ構成は成立しません(表の第5章)。業種の一致は、条件の一致を意味しません。
型3 ― 実態が単純なAPI呼び出しである提案
「業務データを活用したAI」と説明される提案が、実際には汎用モデルへのAPI呼び出しに定型の指示を付けただけである場合があります。
この構成自体は問題ではありません。多くの用途では十分であり、むしろ構成が単純なほうが保守しやすい面があります。問題は費用と工数がその構成に見合っているかです。
確認する項目
- 「当社のデータは、この仕組みのどこで使われますか」 ― 参照するのか、学習するのか、あるいは指示に含めるだけか。
- 「工程を図で示してもらえますか」 ― 構成が分かると、費用の妥当性が判断できます(第1章)。
- 「同じことを、既存の汎用サービスの標準機能で実現できますか」 ― 実現できる場合、追加費用の理由を確認します。
3問目は聞きにくく感じるかもしれませんが、正当な確認です。誠実な提案者であれば、標準機能との差を説明できます。差が説明できる場合、その差が費用の根拠になります。
事例紹介の資料に数値が1つも入っていない場合、その事例は測定されていない可能性があります。「大幅に効率化」「劇的な時間短縮」という表現だけで、対象範囲・件数・所要時間の変化が示されていない事例は、成果が確認されたものとして扱えません。逆に、条件と数値が併記された事例は、自社との距離を測れるため価値が高くなります。
型4 ― 他社事例を自社の実績として提示する
説明の中で、次の3つが混在することがあります。
- 自社が実装した案件
- 自社の製品を使った顧客の案件(実装は顧客または他社)
- 業界で報道された一般的な事例
いずれも情報として意味がありますが、提案者の実装能力の根拠になるのは1つ目だけです。確認は「この案件は御社が実装されたものですか」で足ります。
この質問は、相手を疑うためのものではありません。どの部分を自社で補う必要があるかを決めるためのものです。実装を他社が行った事例であれば、実装の工数と体制は別途確認する必要があります(表の第9章のベンダー選定)。
型5 ― 効果の測定範囲のずれ
数値が示されている事例でも、測定範囲が業務全体と一致しない場合があります。
| 示された数値 | 確認する点 |
|---|---|
| 処理時間が○%短縮 | 人の確認作業を含めた合計時間か。対象は全業務の何割か |
| 精度○% | 何を正解としたか。件単位の完全正解率か、項目ごとか |
| 年間○時間削減 | 導入前の時間を実測したのか、推計か |
| コスト○%削減 | AI利用料・整備工数・運用工数を含めた総額か |
| 利用者満足度○% | 回答率はどれだけか。いつ時点の調査か |
1行目が最も重要です。AIの処理時間だけを測った数値は、業務の効果を示していません(表の第9章)。確認を含めた合計時間が減っていなければ、業務は楽になっていません。
七月十日、AI推進室の瀬尾は、クラウゼル・テクノロジーズが導入事例として紹介したミクモ工業を見学しました。紹介資料には「帳票処理の時間を70%短縮」とあります。購買課の係長に条件を聞くと、対象は書式が決まっていて枚数の多い取引先3社の分で、全体の2割ほど。読み取った結果は全部人が確認しており、短くなったのは打ち込む時間でした。確認を含めた時間は測っていません。朝凪精機の経理課の請求書は月300枚で、取引先の数だけ書式があり、手書きも混じります。同じ70%を試すなら、書式ごとに枚数を数えて、同じ2割がどこにあるかを探すところからです。購買課で条件を聞くのにかかった時間は30分ほどでした。
この場面は網羅物語之巻 第4章「よその会社の成功事例」に出てきます。
事例を有用な情報として使う
事例を避ける必要はありません。使い方を変えれば、最も実用的な情報源になります。
- 条件を照会する ― 対象範囲、データの状態、整備工数、体制、確認工程、例外の扱い、費用。7項目を聞くだけで、事例の情報量が変わります。
- 自社との差分を書き出す ― 一致している条件と、違う条件を並べます。違う条件が、自社で追加的に必要になる作業です。
- うまくいかなかった点を聞く ― 実際に運用した相手であれば、想定と違った点を挙げられます。挙げられない場合、運用の経験が薄い可能性があります。
- 稼働期間を確認する ― 6か月以上稼働している事例は、運用段階の知見を含みます。
3番目が最も有用です。失敗や想定違いの記述がない事例は、実際の運用に基づいていない可能性があります(表の網羅版 第30章「情報源の見極め方」)。逆に、想定と違った点を具体的に語れる相手からは、資料に載っていない情報が得られます。