評価軸を1つに戻す
ここまで30章にわたって、AI導入の周辺で人間側が仕掛ける、あるいは陥りやすい罠を扱ってきた。最後に、それらをまとめて1つの評価軸に戻す。
AIを使っているかどうかは、それ自体では評価軸にならない。評価すべきは、製品や業務がどれだけ良くなったかである。
単純な話に見えるが、実際の場面ではこの軸が失われる。導入したという事実そのものが成果として扱われ、その事実に予算が付き、使い続けていることが継続の根拠になる。この状態では、効果を検証する動機が組織から消える。
手段が目的に変わる過程
手段の目的化には、はっきりした順序がある。本書の各章で扱った型が、この順序に沿って並ぶ。
この順序は、AIに限らず新しい技術の導入で繰り返されてきたものである(第0章)。だから対処も既知である。目標を業務の言葉で設定することである。
目標設定の対比
| 手段が目的化する設定 | 結果で評価できる設定 |
|---|---|
| AI活用を推進する | 請求書処理の1件あたり所要時間を、確認作業を含めて半分にする |
| 全部署でAIツールを導入する | 問い合わせの一次回答までの時間を、平日日中で1時間以内にする |
| 年間5件のPoCを実施する | 本番稼働した仕組みを年間2件作り、6か月後も稼働している状態を保つ |
| AI人材を育成する | 主要な仕組みごとに、変更・復旧を実施できる担当者を2人以上置く |
| 最新のAI技術を導入する | 対象業務の処理件数を、追加の人員なしで2倍にする |
右側の設定であれば、AIを使わずに達成できた場合も成果になる。これが重要な点である。手段を問わない目標設定が、手段の目的化を構造的に防ぐ。
AIを使わない選択肢を常に並べる
実務では、AI以外の手段のほうが安く早いことがよくある。表の網羅版 第23章「正しく付き合うための考え方」でも扱った内容である。
- 入力項目を減らす ― 開発が不要で、効果は確実である
- 承認の階層を1段なくす ― 処理時間が直接短くなる
- 取引先に書式を揃えてもらう ― 読み取り精度の問題自体が消える
- 定期的な書き出し設定を追加する ― 手作業の転記が不要になる
- 表計算ソフトの関数やマクロを使う ― 費用がほぼかからず、変更も容易である
これらを並べたうえでAIを選ぶのであれば、その選択には根拠がある。並べずにAIから入った場合、後になってより簡単な手段の存在が判明することになる。
一年目の三月、朝凪精機の経理課長が、毎月まる2日かかる月末の集計をAIで何とかできないかと持ち込んだ。情報システム課の倉田は翌日、担当者に先月の集計を同じ手順でなぞってもらい、1日横で見た。2日の大半は、販売管理・会計・出荷管理の3つのシステムの画面から数字を書き出して表計算に貼る作業で、判断の要る作業はなかった。倉田は3つの書き出しを毎晩決まった時刻に走らせる設定を足し、AIは使わなかった。二年目の三月の取締役会で、倉田は翌年度の計画案の進め方を説明しながらこの件を挙げ、「観察してから手段、はあれです」と言っている。この判断ができたのは、手段を決める前に業務を観察したからである。観察を省略して手段から入ると、この結論には至らない。
この場面は網羅物語之巻 第16章「分からないと書いた報告書」に出てきます。
30章分を、3つの行動にまとめる
本書で扱った罠は多岐にわたるが、対処は3つに集約できる。いずれも専門知識を必要としない。
1. 範囲を聞く
提案・報告・実演のいずれについても、次を確認する。
範囲が示されない情報は、評価できない。この3問は専門知識を必要とせず、失礼にもならない。
2. 止める条件を先に決める
PoCも本番運用も、中止の条件を着手前に文書にしておく(第9章・第24章)。
これがあるだけで、判断の性質が変わる。中止が個人の責任から計画の実行になる。そして中止の理由が記録されれば、次の案件で最も価値のある情報になる(第8章)。
3. 結果を業務の言葉で測る
AIを使ったかどうかではなく、業務がどう変わったかを数字にする。手段を問わない目標にすれば、そもそも罠にかかる余地が小さくなる。
測る対象は5項目である(第24章)。
- 対象範囲の割合
- 確認を含む所要時間
- 1件あたりの費用
- 例外の発生率
- 人による修正の割合
この3つは、AIに詳しくなることを要求しない。通常の業務判断の作法をAI案件にも当てはめるだけである。
疑うためではなく、確認するために
最後に、本書全体についての注記を繰り返す。
ここに挙げた罠は、それが現れていること自体が不正の証拠ではない。誠実な提案者であれば、具体的な数値・工程・条件を添えて説明できる。確認質問に対して、答えられない場合でも「確認して回答します」と言える。
本書の目的は、相手を疑うことではない。確認すべき点を明確にすることである。
この区別には実務上の意味がある。確認の作法が組織内で共有されれば、誠実な提案者にとってはむしろ話が早くなる。範囲・条件・工数が最初から提示され、それに対する判断が短時間で行われる。逆に、確認の作法がない組織では、提案の質に関わらず判断に時間がかかり、そして判断の精度も上がらない。
良い提案が正しく評価される状態を作ることが、結果として自社にとっての利益になる。
本書と表(網羅版)の関係
本書は表の網羅版31章と対になる構成である。技術・実務・組織・経営・法規制・倫理の内容は表で扱っており、本書はその周辺で起きる人間側の型を扱った。
読了後の使い分けを示す。
| 目的 | 参照先 |
|---|---|
| 技術・実務の内容を確認する | 表(網羅版)の該当章。網羅版 |
| 用語の意味を確認する | 表の網羅版 第26章「用語集」 |
| 導入前・契約・稼働後の確認項目を使う | 表の網羅版 第27章「チェックリスト集」と本書の第27章 |
| 自社の現在地を測る | 表の網羅版 第28章「AI活用成熟度 自己診断」(活用の成熟度)と本書の第28章(罠耐性) |
| 短い分量で全体を把握したい | シンプル版(全8章)と裏之巻(全8章) |
本書の記述時点は各章の「最終確認」に示している。技術・製品の記述を含む章は半年ごと、法規制の章は年1回の見直しを方針としている。本書も情報源の一つであり、記述時点を確認して読む対象である(表の網羅版 第30章「情報源の見極め方」)。