推進が形だけになる型
「DXを推進する」という宣言のあとに、現場では何も変わらないことがあります。号令と記録のあいだが埋まらないためです。ここでは、その埋まらない型を扱います。
ここで扱うのは、悪意ある妨害ではありません。多くは推進する側が、必要な粒度を知らないまま進めていることから生じます。だから対処は、責任追及ではなく粒度の共有になります。
型1 ― 号令だけのDX宣言
方針として「DXの推進」「AI活用の全社展開」が掲げられ、具体的な対象業務が示されない状態です。この形が問題になる理由を分解します。
| 起きること | 理由 |
|---|---|
| 各部署が着手しやすい業務を選ぶ | 対象の選定基準が示されないため。結果として件数の少ない属人的な業務が選ばれる(表の第7章の逆説) |
| 活動量が報告される | 成果の定義がないため、検討回数・研修受講率・PoC件数が実績になる |
| データ整備が進まない | 特定の用途に紐づかないと、どこまで整えるべきかが決まらない |
| 現場が協力しない | 目的が抽象的で、記録した本人に返る効果が示されない |
| 中止の判断が起きない | 成功の定義がないため、失敗の定義もない |
対処は、方針の否定ではなく方針を業務の言葉に翻訳することです。「DXの推進」を掲げること自体は問題ではなく、その下に「請求書処理の1件あたり所要時間を確認込みで半分にする」という水準の目標が置かれていれば機能します(表の網羅版 第23章「正しく付き合うための考え方」)。
翻訳を促す質問
- 「最初に着手する業務はどれですか。月間何件ですか」
- 「達成したかどうかは、どの数字で判断しますか」
- 「その数字の現在値は測ってありますか」
3問目が最も効きます。現在値が測られていなければ、後から効果を示せません(表の第9章)。この確認は方針を批判するものではなく、方針を実行可能にする作業です。
型2 ― 聞き取りだけで済ませる調査
業務の記録を作る際、担当者への聞き取りだけで手順書を作成する形です。表の第7章で述べたとおり、聞き取りには構造的な限界があります。無自覚な判断、低頻度の例外、身体的な判断、規範との混同。
それでも聞き取りだけで進む理由は、実地観察に工数がかかるためです。したがって対処は、観察の工数を計画に入れることになります。
| 方法 | 工数 | 得られるもの | 漏れるもの |
|---|---|---|---|
| 聞き取りのみ | 小 | 業務の流れ、担当者が自覚している判断 | 無自覚な判断、低頻度の例外 |
| + 実地観察(1日) | 中 | 実際の操作順序、迷った箇所、手順書に無い判断 | 月次・年次の例外 |
| + 例外の実測(1か月) | 中 | 例外の頻度と内容。自動化の範囲を決める根拠 | 年1回の例外 |
| + 操作ログの取得 | 小〜中 | 実際の操作回数、所要時間の分布 | 判断の理由 |
最小限の追加は「1日の実地観察」と「1か月の例外の記録」です。この2つを計画に入れるだけで、稼働後に業務が止まる主要な原因が減ります。
業務調査の計画に実地観察の日程が入っていない場合、その調査は聞き取りだけで完結する想定になっています。加えて、ヒアリングの場で「たまにあります」「例外的に」という言葉が出た時点で、その場で1か月分を数える約束をしてください。この一言だけで、記録の抜けの大部分が防げます。稼働後に判明する例外は、たいていこの言葉で流されたものです。
型3 ― 「スモールスタート」による検証の先送り
小さく始めることは正しい方針です。しかし判断の先送りの言い訳としても使える表現です。区別する基準を置きます。
| 観点 | 機能する形 | 先送りになっている形 |
|---|---|---|
| 対象の選び方 | 件数の多い業務の、頻出パターンに絞る | 影響が小さい業務を選ぶ |
| 比較対象 | 着手前に現在値を実測している | やってから効果を考える |
| 判定の期限 | 日付が決まっている | 期限がない |
| 拡大の条件 | どうなったら広げるかが決まっている | 「うまくいったら」 |
| 中止の条件 | どうなったら止めるかが決まっている | 決まっていない |
| 報告の内容 | 対象範囲・所要時間・残作業を含む | 「技術的には可能」で終わる |
右列の状態でも小さく始めることはできますが、判断が発生しないため次に進みません。結果として、同種のPoCが繰り返されます(第9章)。
確認は1問です。「いつ、何を見て、進むか止めるかを判断しますか」。この質問に答えられれば、そのスモールスタートは機能します。
型4 ― 記録作業を通常業務に上乗せする
業務の記録には時間がかかります。その時間を業務時間として確保しないと、片手間の記録になり、精度が落ちます(表の第7章)。
現れる形を挙げます。
- 「通常業務の合間に記録をお願いします」 ― 実際には合間がないことが多い。
- 「短時間で終わるはずです」 ― 必要な粒度が共有されていない。
- 記録の担当を明示しない ― 誰の業務でもない状態になる。
- 期限だけが設定される ― 質より提出が優先される。
対処は、記録作業の工数を業務計画に計上することです。加えて、記録した本人に返る効果(引き継ぎの負担軽減、休みの取りやすさ、問い合わせ対応の減少)を先に示します(表の第7章)。
型5 ― 現場の記録を評価に流用する
業務の記録を作る作業は、現場から見ると監視に見えます。この懸念に対して「評価には使いません」という口頭の説明だけでは足りません。
実際に評価に流用された場合、次のことが起きます。
- 記録の精度が落ちる(不利な情報が記録されなくなる)
- 以後の協力が得られなくなる
- 他部署にも伝わり、組織全体で記録作業が困難になる
したがって対処は運用ルールとして文書化することです。「この記録は個人の評価に使用しない」「記録の閲覧範囲は○○に限る」を書面で示します。文書があれば、担当者が交代しても引き継がれます。
四月に三か年計画とともに発足した全社DX推進委員会は、九月で6回目を迎えました。議事録はいつも「進捗良好」ですが、各部が選んだ対象業務は、営業部の展示会の出展報告書が月1〜2件、第二工場の治具の設計変更の記録が月4件と、月に数件のものばかりで、効果を数字で言えません。AI推進室の瀬尾は各部に、候補になる業務の先月の件数を多い順に並べてもらいました。経理課は請求書の照合(月約300枚)、営業部は見積書の作成(月に数百件)、第二工場は発注書の読み取り(月に100枚近く)と、対象はほとんど入れ替わりました。件数を数える作業自体は各部署で半日程度でした。
この場面は網羅物語之巻 第6章「進捗良好」に出てきます。
この章の確認質問
- 「最初に着手する業務はどれですか。月間何件ですか」 ― 号令を業務に翻訳する。
- 「達成したかどうかは、どの数字で判断しますか。現在値は測ってありますか」
- 「業務調査の計画に実地観察の日程は入っていますか」
- 「例外の頻度は数えましたか」 ― 「たまに」で流されていないか。
- 「いつ、何を見て、進むか止めるかを判断しますか」 ― スモールスタートの判定。
- 「記録作業の工数は業務計画に入っていますか」
- 「この記録を評価に使わないことは、文書になっていますか」
7問のうち、1問目と5問目が最も広く効きます。対象業務が特定され、判断の日付が決まっていれば、他の項目は後から補えます。