わからないことはなんでも聞いてね

柏木ひろしは、いつも笑っている。

六十三歳。肩書はシニアプロジェクトアドバイザー。三十五年のキャリアがあり、大型案件を八つ通したという。若手の大西が主担当になったAI文書点検プロジェクトに、メンターとして付いている。

口癖は決まっている。「わからないことはなんでも聞いてね」

大西は、素直に聞いた。

「要件定義のレビュー、誰の承認で完了にすればいいですか」

「いい質問だね」柏木は、本当にうれしそうな顔をした。「それはね、関係者がちゃんと納得するかどうかなんだよ」

「関係者というのは」

「まあ、関係する人だよね」

「関係する人、というのは」

「うん、関わってる人」

「関わっている、というのは」

「だから、関係してる人」

大西は三秒待った。それから、もう三秒待った。言葉は、輪になって、同じところを静かに回っていた。輪の中心には何も無かった。

第七回・おなじ会議

会議室Cに議題「文書点検プロジェクト 受け入れ基準について」が出されるのは、この日で七回目だった。

穂積ちはやが、過去六回分の議事録を印刷して配った。六枚とも、結論の欄に「継続検討」と書いてあった。日付だけが違った。

ただし、よく見ると微妙に違っていた。第一回は「継続検討」。第三回から「検討を継続」。第五回で「継続して検討」。第六回ではついに「検討の継続について継続して検討」となっていた。同じ四文字が、増えていた。

「あの、これ」大西が言った。「四月十二日の回で、承認者は浅利部長、と決まっていませんか」

全員が黙った。

それから柏木が、にこにこしたまま、首をかしげて言った。

「そうじゃないんだよなあ」

霧が出た。

霧

白く、わずかに甘い。会議室Cの天井の隅からゆっくり降りてきて、机の高さで止まり、十数秒かけて散る。

吸った者は、直前に決まったことを忘れる。痛みはない。不快感もない。むしろ少し、気が楽になる。社内では一部で「柏木霧」と呼ばれ、一部で「あの、なんか、出るやつ」と呼ばれている。後者のほうが多数派である。

「えーと」大西が言った。「……何の話でしたっけ」

「受け入れ基準の話だよ」柏木が言った。「大事だよね。そこはちゃんと決めないと」

「そうですね」

「じゃ、次回までに叩き台を出してもらって」

「誰が、ですか」

「うん、出してもらってね」

「出してもらう、というのは」

「出してもらうんだよ」

霧が、もう一度、少し出た。

このとき会議室Cの議題は、静かに二つに分裂した。「受け入れ基準について」と「受け入れ基準の叩き台の作成主体について」である。後者は三週間後に第一回を迎え、二か月後には「叩き台の作成主体の決め方について」をさらに分裂させた。年度末までに、この系統の議題は七つに増えた。七つとも、結論欄は同じ四文字で始まっていた。

編者註

会議室Cの空調フィルターは、設備台帳上、十四か月交換されていない。同室で開催された会議のうち、結論欄に「継続検討」ないしその派生表現が記載されたものの比率は、他の会議室の二・三倍である。

後日、総務が会議の録音を機械的に解析したところ、柏木ひろしの発した「いい質問だね」は、十一か月間で百六十四回、音の高さ・長さ・抑揚のいずれにおいても有意な差が無かった。同じ波形が百六十四回、同じ場所で再生されていたことになる。

なお丸越マテリアルにおいて、会議の結論を誰が確定させるかを定めた規程は、情報システム運用規程 第四版 第十二条に存在する。地下三階にある。

ニュアンスが違うんだよ

霧が散りきったとき、ひとりだけ、姿勢の変わらない人物がいた。

契約職員の真野ひかりである。

「四月十二日、十五時四十分」真野は、手元を見ずに言った。「承認者は浅利部長、受け入れ判定の基準は様式別の正答率、閾値は後日決定。発言者は柏木さんです」

柏木の笑顔は、変わらなかった。首をかしげる角度が、二度ほど深くなっただけだった。

「うーん。ニュアンスが違うんだよなあ」

「どの部分でしょうか」

「いや、言葉としてはそうなんだけど、こう、全体の、温度感がね」

「温度感というのは、どの項目に対するものでしょうか」

「だから、全体の」

「全体、というのは」

「……うん、全体だね」

真野は、承知しました、と言った。そして議事録に打ち込んだ。「承認者について、四月十二日の決定と異なる見解が示された。相違点の説明は得られていない」

柏木は、その議事録を読まなかった。読まないことは、この会社では失礼にあたらない。

いい質問だね

会議の終わりぎわ、末席の有村が手を挙げた。花粉症のマスクをしたままだった。

「すみません。では、誰が決めるのですか」

部屋の空気が、ほんの少し止まった。

「いい質問だね」柏木が言った。百六十五回目だった。

霧が出た。今度は濃かった。全員がそれを吸った。

有村だけが、マスクをしていた。

会議室を出ながら、大西が明るい声で言った。今日はいい議論ができましたね。穂積がうなずいた。浅利部長が、みんな自由に意見が出せていてよかった、と言った。

有村は、ノートに一行だけ書いた。「受け入れ基準:七回審議。決定者:未定。七回目で初めて、誰が決めるのかという質問が出た」

柏木ひろしについて

柏木に悪意はない。これは記録の上でも確かである。

彼は本当に、期限が来ればプロジェクトは終わるものだと思っている。三十五年の経験が、そう教えた。実際、彼の八つの案件は、すべて期限どおりに終わっている。

ただし、そのすべてにおいて、受け入れ基準を決めたのは柏木ではなかった。決めていたのは、現場にいた別の誰かである。たいていは怒鳴られながら、たいていは土日に、たいていは誰にも褒められずに決めていた。

その誰かたちは、もう会社にいない。何人かは辞め、何人かは倒れ、何人かは別の会社で、同じように土日に決めている。

柏木は、自分が三十五年かけて何をしてこなかったのかを、まだ知らない。知らないまま、あと二年で、めでたく再雇用の期限を迎える。

その日まで、彼は毎朝、いい笑顔で出社するのである。