穂積ちはや、二十六歳

穂積ちはやが社内のすべてを知っているのには、理由がある。

彼女は誰とでも仲よくなる。総務の小笠原さんとも、守衛室の高梨さんとも、ビル管理の業者とも、工場の生産管理のベテランとも、経理の派遣の人とも、協力会社の若手とも、三か月に一度しか来ない保守の担当とも、週に二度来る弁当屋の人とも仲がいい。

仲がいいので、雑談で教えてもらえる。あの画面は二〇一八年の改修で項目が増えたこと。在庫管理の品番に、工場側だけが使う裏の採番規則があること。承認フローの三段目は実質機能しておらず、みんな二段目で止めて口頭で通していること。請求書の様式が二種類あり、古いほうは経理の一人しか読めないこと。三階の会議室Cは使わないほうがいいこと。

そうやって集めた情報は、どこにも書かれていない。

書く必要がなかったからである。みんな、穂積さんに聞けばよかった。

九月十七日、金曜日

穂積ちはやが有給休暇を取得した。友人の結婚式だった。申請は三週間前に出され、浅利部長は一秒で承認した。うちは自由な部署だからね、と言った。

午前十時三分。三階フロアの掛け時計が止まった。秒針が「8」のところで、こきり、と小さな音を立てて動かなくなった。誰も気づかなかった。全員が自分の画面を見ていたからである。

十時十一分。複合機が紙詰まりを起こした。表示パネルには、本来あるはずのないメッセージが出ていた。「穂積さんは?」

総務の小笠原が保守に電話をかけた。保守は「そのメッセージは弊社の機種には実装されていません」と答えた。小笠原は写真を撮って送った。返信は来なかった。

十時二十四分。月次処理のバッチが異常終了した。エラーコードは E-0417。社内のどの手順書にも載っていない。載っていないが、穂積なら知っている。前任の派遣社員が辞める前に口頭で引き継いだもので、対処は「十五分待ってから再実行」である。

十一時四十分。エレベーターが三階に止まらなくなった。ボタンは光る。光るだけで、素通りする。二階と四階には止まる。階段を使えばよいので、大きな問題にはならなかった。

十二時十五分。自動販売機が、どのボタンを押してもブラックコーヒーを出すようになった。甘いものが飲みたかった大西は、三回続けてブラックコーヒーを買い、三本並べて机に置き、しばらく眺めてから、一本飲んだ。

十三時二分。経理の若手が、廊下で立ち止まった。「穂積さんに聞けば早いんだけど」と言ったところまでは覚えている。そこから先が無かった。彼はそのまま、十四分間、同じ姿勢で立っていた。

十四時。同じ姿勢の者が、三階に六名になった。全員、口のかたちが「ほ」で止まっていた。

十四時三十分。総務が「立ったままの社員」の人数を記録しはじめた。記録用紙は、その場で手書きで作られた。様式番号は無い。この用紙は、のちに地下三階の第二十六箱に収められ、誰にも読まれない。

十五時。浅利部長が、フロアを見渡して言った。

「まあ、月曜になれば戻るでしょ」

この一言で、全員が安心した。安心は、この会社でもっとも生産性の高い感情である。

編者註

同日の社内ヘルプデスクへの問い合わせは四十一件で、平常日の二・八倍である。うち三十七件は、穂積ちはや個人への直接連絡が不能であったために発生している。

後日の調査では、四十一件のうち三十四件は、手順書が存在すれば一次対応者が解決できる内容であった。残る七件のうち六件は、そもそも作業の正当性を誰も説明できないもの(「昔からこうしている」)であった。

残り一件は、複合機の表示に関するものである。保守会社の見解は現在も変わっていない。

チャッピーに聞いてみる

大西が、すがる気持ちでチャッピーに打ち込んだ。

チャット履歴(大西 / 十一時六分)

月次バッチの E-0417 の対処方法を教えてください

該当する記載は、社内の文書には存在しません。

社外の一般的な情報でもいいので

このエラーコードは御社の独自定義です。一般的な情報はありません。

どうすればいいですか

わたしは、文書に書かれていないことを答えることができません。この件は、知っている方に口頭で確認してください。確認できたら、手順書に書いてください。次に同じことが起きたとき、わたしは答えられるようになります。

いまは?

いまは、答えられません。

大西は画面を閉じた。手順書を書く時間は、今日も無かった。ちなみに、昨日も無かった。

十九時

十九時、清掃の島田久子がフロアに入ってきた。

まだ七人が残っていた。うち二人は、立ったままだった。

島田はゴミ箱の袋を替えながら、誰にともなく言った。

「……属人化って、まわりが楽するぶん、本人がいちばん損するのよね」

誰も聞いていなかった。立っている二人は、もちろん聞いていなかった。有村だけが顔を上げた。

月曜日の朝

穂積ちはやは九時三分に出社し、金曜に溜まったものを十五分で片づけた。

E-0417は十五分待って再実行し、複合機は三階の紙詰まりセンサーの汚れを拭き、エレベーターは管制盤の三階ボタンの接触を直し、自販機は業者に電話をかけ、承認で止まっていた稟議は三件とも「二段目で止めて口頭で通す」で通した。

九時十八分、フロアの時計が、こきり、と音を立てて動きはじめた。

立ったままだった六名も、同じ瞬間に歩きだした。六名とも、自分が立っていたことを覚えていなかった。覚えていないので、誰も報告しなかった。報告されないものは、起きなかったことになる。

「穂積さん、ほんとすごいわ」大西が言った。「穂積さんがいないと会社回らないよ」

「やだー、やめてくださいよ」穂積は笑った。

この会話は、この会社で、年に四十回ほど交わされる。

帰り道

その日の帰り、穂積ちはやは、自分が三年前に作った「引き継ぎ資料」という名前の共有フォルダのことを思い出していた。

中には、ファイルが一つも入っていない。作った日に、入れる時間がなかった。翌日も無かった。それから三年、一度も無かった。

彼女はまだ二十六歳で、この会社にあと四十年近くいることになっている。四十年というのは、金曜日が二千回あるということである。

駅の階段を上がりながら、彼女は、自分が辞めると言ったときに誰が困るかを数えた。

三十まで数えて、やめた。やめたのは、数えきれなかったからではない。数えても何も変わらないことに、途中で気づいたからである。