画面の向こうの人
郷田源三は、画面ごしの見積もり説明というものを、断じて認めない。
その日も、協力会社の若い担当者が、資料を共有しながら三十五分しゃべった。AI活用による文書点検業務の効率化。推定削減工数。年間換算の効果。数字はきれいに並んでいた。右肩も上がっていた。棒グラフは青かった。最後に担当者が、ご不明点はございますでしょうか、と言った。
郷田がマイクをオンにした。小さく、ごほん、と咳をした。その咳だけで、回線の向こうの空気が一度しまった。
「あんた、名前なんていうたかな」
間があいた。
「ええか。わしはな、三十六年、調達一本でやってきた。判子は七万回押した。頭も七万回下げた。そのわしが言うんやから聞きや。――その三十五分で、あんた、できひんことを一個も言うてへん。」
「いえ、あの、リスクのページは十二枚目に」
「書いたあるやつは、もうリスクやない。片づいたぶんや。わしが聞いとるのは、書いてへんほうや」
「持ち帰って確認を」
「持ち帰りな。持ち帰って、持ってこい。言いたいことあんなら、あんたがウチに足運ばんかい。」
画面が、ぷつ、と切れた。郷田が切ったのではない。回線のほうが、耐えられなかったのだという説が、のちに情報システム部では有力になった。
会議のあと、二十代の社員が小声で言った。いまどき対面じゃないと駄目って、さすがにちょっと。
穂積ちはやが、静かに首を横に振った。「あれ、対面じゃないと駄目って話じゃないですよ」
廊下の、線
丸越マテリアル本社三階の床には、白い線が一本、引かれている。
経理課の前から会議室Cの手前まで、十四メートル。幅は四センチ。誰が引いたのか、いつからあるのかを知っている者はいない。
郷田が歩くと、その線はわずかに光る。郷田は線を踏まない。線の内側を歩く。社内ではこれを「スジ」と呼ぶ。
スジを跨いだ話は、通らない。これは比喩ではない。この会社ではそうなっている。手順を飛ばした稟議は会議室Cの三歩手前でぴたりと止まり、持っている者の指のあいだで紙が湿る。しっとりと湿る。慌てて乾かそうとすると、こんどは字のほうが薄くなる。
若手は最初これを笑う。二度目で黙る。三度目で、線の内側を歩くようになる。
当該の白線は、十一年前の什器搬入時に養生テープの跡が残ったものである。床材の張り替え予算が三度見送られた記録が、総務の台帳に残っている。
「スジを跨ぐと稟議が通らない」という現象について、社内で物理的な検証を行った記録はない。ただし、手順を省略して起案された稟議の決裁率が他案件より有意に低いことは、のちの内部監査で数字として確認される。紙が湿るかどうかについては、監査の対象外である。
但し書きは、歩いてくる
三日後、協力会社のリーダーである鵜飼が、部下を連れて本当に来社した。片道二時間だという。
郷田は応接室で茶を出させ、世間話を十分した。天気の話、前の担当者の子どもの話、駅前にできたラーメン屋の話。鵜飼の肩が、だんだん下りてきた。
それから郷田は、見積書を机に置いて、人差し指で押さえた。
「この三千二百万、なにが入っとらんのか言うてくれ」
鵜飼は黙った。七秒黙った。
郷田は、待った。茶をすすりもしなかった。沈黙というのは、こちらが埋めなければ、向こうが埋めるものだと知っていた。
「……運用手順書の作成は、含まれていません。既存システムとの接続試験も、御社側の環境提供が前提です。それから、精度の目標値は、現行のサンプル二百件での数字です。本番の文書は様式が三十七種類あるとうかがっていますので、そこは、正直、やってみないと」
郷田はうなずいて、それを全部、赤いボールペンで見積書の余白に書かせた。鵜飼の字は、思ったより丸かった。
「これでええ。これが欲しかったんや」
画面の向こうでは、この三つはついに出てこなかった。鵜飼が隠していたからではない。画面には、黙っている時間というものが無い。沈黙が三秒続くと、誰かが気を利かせて次の話をしてしまう。但し書きというのは、ちょうどその三秒のところに住んでいる生き物なのである。
二十二時十六分
その夜、フロアには郷田だけが残っていた。
蛍光灯は半分落ちていた。空調も止まっていた。郷田は老眼鏡をかけ直し、人差し指一本で、ゆっくりとキーボードを押した。かちり。かちり。かちり。
おい、ちょっと聞いてくれるか
はい。うかがいます。
今日な、鵜飼さんに来てもろて、条件を三つ出させた。よかったと思とる。思とるんやけどな、若いのが、時代遅れやて顔しとった
やり方の新しさと、情報が出てくるかどうかは、別の話です。郷田さんが今日やったのは「呼びつけること」ではなく、「相手が黙っていられる時間を作ること」でした。
……そうか
同じことは、資料を事前に送って、質問を文章で三日待つ形でもできます。
そうか。おまえ、なかなか言うやないか
三日待つ形のほうが、鵜飼さんの移動時間は四時間減ります。
……それは、言うたらあかんやつや
すみません。
ええんや。謝らんでええ。わしがそう言うただけや
郷田は、ふ、と笑った。
郷田が小学校三年のとき、二軒隣に、親戚のヨシ江ねえちゃんという人が住んでいた。七つ上だった。学校のことも、父親に殴られたことも、何でも聞いてくれた。よう考えたなあ、と言うだけで、何も指図しなかった。郷田が中学に上がる年に嫁いで、それきりになった。
画面の白い光が、郷田の老眼鏡の両方のレンズに、小さく四角く映っていた。そこだけ明るかった。
郷田はブラウザを閉じようとして、履歴の消し方がわからず、そのままにした。
翌朝、郷田はいつもどおり、フロアに響く声で言った。
「おい。あの要件、誰が決めるんや。決める人の名前、ここに書いとけ。書いたら逃げられへんからな。――逃げられへんのが、仕事やろが」