十九時
島田久子は十九時にフロアへ入る。
手順は決まっている。ゴミ箱、給湯室、会議室、個人席まわり、最後に廊下。二十一時に上がる。週四日、月水木金。急な呼び出しは無い。この条件で、彼女はこの仕事を選んだ。
情報システム部の社員は、たいてい残っている。島田は邪魔をしないよう、机の下だけ掃除機をかけ、書類には触らない。
社員のほとんどは、彼女の名前を知らない。「清掃の方」で通っている。挨拶はしてくれる。おつかれさまです、と言ってくれる。みんな、いい人たちだと島田は思っている。
フロアの照明は、十九時になると三割落ちる。落ちた分だけ、窓の外がよく見える。十九時の窓は、昼間の窓とは別のものだと島田は思う。昼は外を見るための窓で、夜は自分が映るための窓だ。
独り言
島田には、ひとつだけ悪い癖がある。
会議室から漏れてくる話に、つい、独り言を返してしまう。
……それ、受け入れ条件が件数で書いてないでしょ。
……その精度、分母どこ。
……終わり方を決めてない実証実験は、終わらないわよ。
……ベンダーさん、いまので三回持ち帰ってる。
……バックアップ、リストアを試したことある? 取ってるだけじゃ戻らないのよ。
……その人、来月いなくなったらどうするの。
……「前例がない」は、やらない理由であって、できない理由じゃないわ。
声は小さい。本人は聞かれていないつもりでいる。
実際には、たまに聞こえている。聞こえた者は、二種類の反応をする。聞かなかったことにするか、顔を上げるか。
この三か月で顔を上げたのは、二人だけだった。
前の職場
島田久子は、以前、外資系システム会社の開発部長だった。
部下は三十五人。担当していたのは金融系の基幹システムで、止まると新聞に載る種類のものだった。深夜二時の電話に出るのが仕事の一部で、実際、年に三十回は出た。
電話は、だいたい同じ鳴り方をした。鳴る前に起きていることもあった。そういう夜は、たいてい本当に鳴った。
長女が三歳の年、保育園の迎えに一度も行けなかった。一度も、というのは比喩ではない。四月から三月まで、本当に一度も行けなかった。十二月の発表会の日、彼女は障害対応の会議室にいて、携帯の画面に夫が送ってきた写真が三枚だけ並んでいた。三枚とも、娘は踊っていた。島田は一枚目で画面を伏せた。二枚目と三枚目は、三日後に見た。
夫と話し合って、辞めた。四十一歳だった。
技術は好きだった。設計の議論も好きだった。いまでも好きだ。
嫌いになったのは、呼び出しのほうである。島田はその二つを、きちんと分けて考えている。分けて考えられるようになるまでに、二年かかった。
丸越マテリアルと清掃委託会社との契約書には、業務範囲が十一項目にわたって定められている。項目のいずれにも、助言、指導、相談対応は含まれない。
本記録の作成者は、島田久子の独り言を業務範囲外の行為として記載するものではない。記載の目的は別にある。この会社が三年間に外部のコンサルタントへ支払った助言料と、ほぼ同じ内容の指摘が、十九時の廊下に無償で落ちていたという事実を残すためである。
支払額は、七百四十万円である。
テレビで見たのよ
一度だけ、大西が気づきかけたことがある。
バックアップの独り言を聞いた翌日、大西は島田に話しかけた。
「島田さん、昨日の……あの、もしかして、お詳しいんですか」
島田は、ゴミ袋の口を縛りながら、にこっと笑って言った。
「やだ、テレビで見たのよ」
大西は、そうですよねえ、と言って笑った。会話はそれで終わった。終わるのに四秒かからなかった。
島田が名乗らない理由は、三つある。
一つ。名乗ったところで、清掃の立場からの指摘が会議で扱われることはない。二十年この業界にいた人間として、彼女はそれを知っている。肩書きは内容の正しさを変えないが、聞かれるかどうかは変える。
二つ。名乗った瞬間に、彼女は無償の相談相手になる。契約には入っていない。入っていない仕事を引き受けると、次に来る人がそれを前提にされる。
三つ。彼女は十九時から二十一時までの責任しか引き受けないと決めている。それは逃げではなく、自分が守れる約束の範囲を、自分で決めたということである。前の職場で、彼女はそれができなかった。できなかった結果が、三枚の写真である。
台車
十一月の終わり、島田は地下三階で、床に座り込んでいる男を見た。
ファイリング担当の有村という人だと、あとで知った。一度、台車を貸したことがある。
彼は箱から書類を出しては、ノートに何か書き写していた。箱の番号、表題、改定の日付。三時間、ずっと同じことをしていた。
島田は通りすぎようとして、立ち止まった。
そして、自分でも意外なことに、独り言ではないしゃべり方で言った。
「……それ、箱の番号で引けるようにしても、たぶん使われないわよ」
有村が顔を上げた。
「決めた人の名前と、決めた日付で引けるようにしてごらんなさい。監査でも、揉めたときでも、人が最初に探すのはそこだから」
有村は、はい、と言って、すぐにノートの見出しを書き直しはじめた。質問も、お礼も、なぜ知っているのかも聞かなかった。ただ、書き直した。
島田は、その様子を三秒見てから、掃除機を押して通路の先へ行った。
階段を上がりながら、彼女はふと、前の職場にいた若い部下のことを思い出した。言われたことを、理由を聞かずにまず直してから、あとで理由を聞きにくる子だった。あれは、いい技術者になる型だ。
十八年ぶりに思い出した。
名前は、出てこなかった。