浅利部長は、部下を信頼している
浅利部長が一年のあいだに口にすることは、ほぼ三つに集約される。
「みんなに自由にのびのびと働いてほしい」「細かいことは言わないから」「困ったら言ってね」
叱らない。詰めない。人格を否定しない。部下の評判は悪くない。むしろ、いい上司だと言われている。前の部長が怒鳴る人だったので、なおさらそう言われる。
ただし、浅利部長が自分の手で書く書類が、月に一つだけある。
N本部長あての、月次報告書である。
N本部長について
浅利部長は、N本部長に会ったことがない。
十八年前の創立記念式典で、壇上の遠くにいた人がそうだったかもしれない、という程度である。声を聞いたこともない。写真も見たことがない。
報告書は、毎月十日に、社内メールで送る。宛先は十八年前から同じアドレスである。
返信が来たことは、一度もない。
返信が来ないのは、順調だからだと、浅利部長は理解している。問題があれば、何か言ってくるはずだからである。
この理解は、二年と四か月にわたって、一度も検証されていない。
報告書の重さ
丸越マテリアルでは、報告書は階層を上がるたびに軽くなる。
現場が書いた原稿は、A4で六枚、二百八十グラムある。手に持つとずしりとくる。角で指を切ることもある。課長がまとめると、二枚、九十グラム。部長がN本部長あてにまとめると、一枚、十二グラム。
本部が役員会に出す資料は、〇・八グラムになる。紙というより薄膜で、空調の風でひらひらと動く。総務が各席に文鎮を配っているのは、このためである。文鎮の予算は、毎年きちんと承認される。報告書の中身を検証する予算は、一度も計上されたことがない。
軽くなる過程で何が失われるのかは、長いあいだ誰も調べなかった。
月次報告のつくりかた
浅利部長は、現場の原稿を画面の左に、報告書の雛形を右に開く。
左側には、こう書いてある。
AI文書点検 試験運用の結果:定型三様式において正答率九十二パーセント。ただし本測定はサンプル二百件によるもので、対象は全三十七様式のうち三様式に限られる。残る三十四様式は様式の揺れが大きく、現時点では精度を測定できていない。また、現場の確認工数は削減されておらず、出力の根拠が表示されないため目視確認が継続している。
浅利部長は、ここから次の二行を作る。
AI文書点検:試験運用において正答率九十二パーセントを達成。順調に推移している。次年度の本格展開を視野に検討を進める。
削ったのは、「ただし」「のうち」「現時点では」「継続している」である。
浅利部長に悪意はない。N本部長は忙しい。細かい条件を並べたら読んでもらえない。要点だけ伝えるのが部下の務めだと、本気で思っている。
それに、条件を書くと、必ず聞かれる。「で、いつ三十七様式いけるの」。その問いに答えを持っていないことを、浅利部長はよく知っている。
もっとも、N本部長から何かを聞かれたことは、二年と四か月、一度もない。
のちの監査で、同社の月次報告十二か月分と、各現場原稿との差分が機械的に比較された。
原稿から報告書への要約で最も高い確率で消えていた語は、「ただし」(十二件中十二件)、「のうち」(十一件)、「暫定」(十件)、「未測定」(十件)であった。逆に、報告書にのみ現れ原稿に存在しなかった語は、「順調」(十件)、「視野に」(八件)である。
失われていたのは成果ではない。成果が成立する条件である。
条件は軽い。だから、いちばん先に飛ぶ。
逃げ切りメーター
浅利部長の頭上、十五センチほどのところに、数字が浮いている。
その日は 487 だった。定年までの残り日数である。
この数字は、本人には見えない。見えるのは他人だけである。鏡に映しても見えない。写真にも写らない。
郷田には見える。穂積にも見える。真野には見える。有村にも、配属二週目から見えるようになった。
見えていることを、誰も口に出さない。口に出さないことが、この会社でもっともよく守られている規律である。規程には書かれていない。書かれていない規律ほど、よく守られる。
数字が三桁になった者は、だいたい同じ三つの行動を取る。新しい仕組みを始めない。判断を会議に預ける。そして、報告書だけは自分で書く。
この三つは、本人の中では別々の判断である。外から見ると、一つの行動に見える。
役員会
十月の役員会で、〇・八グラムの資料が読み上げられた。
「AI文書点検、正答率九十二パーセント。順調です」
役員の一人が言った。「いいね。それ、全社横展開しようよ。来期から」
誰も反対しなかった。反対するための情報が、その部屋には一つも届いていなかったからである。
横展開の方針は、二日で部長に降り、三日で課長に降り、四日目に大西の画面に届いた。降りてくるときは、不思議なほど速い。重さが無いからである。
大西は、三十七様式のうち三十四様式で精度が測れていないことを知っている。知っているが、その情報を上に戻す経路が無い。報告書は上にしか流れない。この会社には、下りの管だけがあって、上りの管が無い。
大西は協力会社の鵜飼に電話をかけた。「あの、すみません、ちょっと相談が……」
帰り道
その日の帰り、浅利部長は駅までの道で少し立ち止まり、胸のあたりをさすった。
何かが引っかかっている感じがした。何が引っかかっているのかは、わからなかった。わかろうとすると、月曜の会議の段取りが頭に浮かんで、そちらに流れていった。
横断歩道の信号が青になった。浅利部長は歩きだした。
頭上の数字が、486 に変わった。
本人には、見えない。