八十二日目 ― 見えるようになった
経過報告を続けています。だいぶ、漢字が書けるようになりました。
先生は、順調に回復していますね、と言いました。ぼくもそう思います。朝、目がさめたときに、天井の木目が木目として見えます。前は、ただの模様でした。
見えるというのは、たぶん、こういうことです。三か月前、この部署はぼくにとって霧でした。いまは、建物が見えます。柱がどこにあって、どこが抜けているかが見えます。
抜けているところを、順番に書きます。
一、規程はあります。地下三階にあります。第四版、七年前の改定です。バーコードの読み取り記録は、二十八箱すべてがゼロです。
二、受け入れ基準は決まっていません。会議は七回ありました。
三、協力会社の鵜飼さんは、定例会で一度も「難しい」と言っていません。八年担当して一度もというのは、言わないのではなく、言う場がないということだと思います。
四、上には「順調です」と報告されています。
この四つは、別々のことではありません。決める人が決まっていないと、決めないことが誰の落ち度にもならない。それだけのことが、四つの顔をして並んでいるのだと思います。
ぼくは、これを言ったほうがいいのだろうか、としばらく考えました。言わないほうが楽だということは、考えなくてもわかりました。
言うことにしました。見えているのに黙っているのは、見えていないのと、たぶん同じだからです。
指摘 一件目
会議で、手を挙げました。
「受け入れ基準は、どこかに文書でありますか」
大西さんが、いい視点だね、と言ってくれました。穂積さんが、たしかに見たことないかも、と言いました。柏木さんが、大事なところだよね、と言いました。
浅利部長が、有村くん、よく気がついたね、と言いました。
その日は、ずっと気分がよかったです。帰りに、駅前でコロッケを買いました。話しかけられた回数 十五回。
検討しときます
二週間後、文書はまだありませんでした。
もう一度聞きました。大西さんが、「ああ、すみません、ありがとうございます。検討しときます」と言いました。
ありがとうございます。検討しときます。
この二つの文は、とてもよくできています。礼を言っているので角が立たず、検討という語には期限がないので、いつまでも終わりません。断られたわけではないので、怒ることもできません。
ぼくは、検討されているかどうかを、どうやって確かめればいいのか考えました。考えて、三つ思いつきました。
一、議事録に載るか。二、次の会議で前提が変わるか。三、関係する作業の指示が変わるか。
記録を取りました。
八十二日目 受け入れ基準の文書が無い → 議事録:記載なし / 次回の前提:変わらず / 作業指示:そのまま追加発注
八十八日目 三十七様式への拡大と期間・予算が合わない → 議事録:記載なし / 稟議:同額のまま回付済み
九十一日目 ベンダーの超過工数が見積に反映されていない → 「ありがとうございます、検討しときます」 / 以降の記載なし
九十五日目 規程の閲覧権限が退職者に紐づいている → 「ありがとうございます、確認しときます」 / 以降の記載なし
百 日目 試験導入のAIが三年間評価されていない → 返答なし
百十日目 ―(会議の招集が来なくなったため、なし)
※ 指摘 十四件。議事録への記載 〇件。変更された前提 〇件。
ぼくは、この表を三回見返しました。三回とも、同じことが書いてありました。
みんな、嘘はついていません。本当に、ありがとうと思っているのだと思います。本当に、検討しようと思っているのだと思います。思っているだけで終わるのは、思うことには締め切りがないからです。
九十五日目 ― 大西さんの発言
その日の会議で、大西さんが言いました。
「あの、やっぱり受け入れ基準、文書にしたほうがいいと思うんですよね」
いい指摘だね、と柏木さんが言いました。そうだよね、と穂積さんが言いました。浅利部長が、大西くんはよく見てるな、と言いました。
部屋が、あたたかくなりました。
ぼくが三週間前に言ったことと、一字一句ではありませんが、同じことでした。
だれも、ぼくのほうを見ませんでした。意地悪ではないと思います。覚えていないのだと思います。検討されなかった指摘は、言われなかった指摘と、記録の上では同じ形をしています。
ぼくは、自分の手が机の上にあるのを見ていました。手は、ぼくの手でした。それ以上のことは、なにも思いつきませんでした。
有村譲の会議招集回数は、配属から九十日目までが週平均四・一回、九十一日目以降が週平均〇・七回である。
同期間において、彼の指摘に対する事実関係の反証は、記録上一件も提出されていない。反証されたのではない。議題から外されている。
なお、九十五日目に大西が行った発言は、議事録に「受け入れ基準の文書化について提起あり」として記載されている。提起者名の欄は、空白である。
郷田さん
その週の金曜、廊下で郷田さんに呼び止められました。
「おい、アルジャーノン」
ぼくは驚きました。日報の署名を見た人が、いたということです。
「おまえ、こないだの、ベンダーの工数の話な。あれ、ええこと言うたぞ」
ぼくは、ありがとうございます、と言いました。
「誰も拾わんかったけどな。拾わんのは、おまえが悪いんやない。拾う係がおらんのや。この会社、拾う係だけ、ずっと空席でな」
郷田さんは、それだけ言って、資材部のほうへ歩いていきました。背中が大きかったです。
ぼくは、その日のことを、長く覚えておこうと思いました。長く覚えておこうと思うということは、そう何度もないということです。
百四日目 ― 定型だけが残る
招集通知に、ぼくの名前がなくなりました。
大西さんに聞いたら、「ああ、今回ちょっと人数絞ったんだ。有村さん、他の作業もあるし」と言われました。他の作業というのは、文書のファイリングです。
その週から、話しかけられる内容が、きれいに二種類になりました。
「おはようございます」と「おつかれさまです」です。
どちらも、ちゃんと返ってきます。目も合います。笑顔もあります。ただ、その前後に、なにもつきません。
雑談がなくなり、相談がなくなり、昼の誘いがなくなりました。残ったのは、言わないと失礼にあたる言葉だけです。
話しかけられた回数 五回。内訳は、挨拶四回と、印刷機の紙が切れていますが一回。
チャッピーに聞きました
ぼくの言っていることは、まちがっていますか
この三か月の指摘十四件について、社内文書と照合できる範囲で、事実誤認は〇件です。
では、なぜ、みんな冷たくなったのですか
冷たくなってはいません。親切さの総量は変わっていません。向けられる先が変わっただけです。
どこへ行ったのですか
あなたの指摘が触れなかった領域へ、です。あなたの指摘は、各人の仕事そのものを否定していません。ですが、全員が触れないでおくと決めていた場所に、毎回正確に当たっています。
ぼくは、やめたほうがいいですか
それは、わたしが決めることではありません。ただ一つだけ。あなたの指摘は、どこにも記録されていません。記録に残っていないものは、あとで誰の助けにもなりません。
では、どうすればいいですか
書いて、残してください。日付と、事実と、参照した文書の名前を。あなたが読まれるためではなく、いつか誰かが探しにきたときのために。
誰かが探しにきますか
わかりません。ただ、探しにきたときに何も無ければ、その人も同じところで止まります。
その日から、ファイリングをしながら、台帳をつくることにしました。
どの文書が、どの箱にあって、最後にいつ改定されて、誰が決めたことなのか。
だれにも頼まれていません。やることが、ほかにないからです。
それと、たぶん、まだ少し、期待しているからです。