断る場所がない

僕は八年、丸越マテリアルの案件を担当している。

協力会社のリーダーとして現場を四人まわしている。技術もわかるし、見積もりも作れる。社内の評価は悪くない。欠点は一つだけで、それは「できません」と言えないことだ。自分でもわかっている。

ただし、僕の名誉のために書いておくと、言えないのは性格のせいではない。

断る理由を説明する場が、そもそも日程に存在しないのだ。

定例会は四十五分。前半二十五分が進捗報告、後半十五分が課題共有、残り五分が次回日程の調整。「この条件では難しい」という話をするには、前提の説明に七分、代案の提示に六分、合意に十分かかる。合計二十三分。そんな枠は、年間の定例会のどこを探しても無い。

だから僕は「持ち帰ります」と言う。持ち帰ったものは、だいたい、できます、になって戻ってくる。

やれやれ、と僕は思う。けれど、やれやれと思うことと、何かが変わることのあいだには、だいたい井戸一つぶんくらいの距離がある。

硬化

この世界では、口に出した「できます」は硬化する。

声に出した瞬間、音が見積書の余白にぽとりと落ちて、そこで結晶になる。半透明で、少し青い。爪で弾くと、よく冷えたグラスを指で弾いたときのような、短くて澄んだ音がする。

硬化したものは、あとから曲げられない。工数が倍になっても、様式が十倍になっても、硬化した「できます」はその形のまま残る。契約書に何が書いてあるかは関係がない。この世界の物理だ。

いっぽう、「やってみないとわかりません」は硬化しない。柔らかいまま、机の上をゆっくり転がって、たいてい床に落ちる。落ちると誰も拾わない。会議の空気のなかでは、柔らかい言葉はいつも弱く聞こえる。そういうふうにできている。

十月下旬の電話

大西さんから電話が来た。申し訳なさそうな声だった。申し訳なさそうな声というのは、たいてい、申し訳ないことを言うときに出る。

「あの、来期から全社展開ということになりまして。三十七様式、全部です」

「期間は」

「……変わらずで」

「予算は」

「……そこも、据え置きで、と」

僕は天井を見た。天井には何も無かった。三様式でサンプル二百件を回すのに三か月かかった。三十七様式は、様式ごとに揺れがある。揺れの調査だけで、たぶん四か月。

その日の打ち合わせに、柏木さんが同席した。柏木さんはにこにこして言った。

「まあ、そこはうまいことやってよ。鵜飼さんなら大丈夫でしょ。長いんだから」

僕は「長いんだから」という言葉の意味を、たっぷり三秒考えた。信頼の表明なのか、断れないという前提の確認なのか。たぶん、柏木さん自身も区別していない。区別する必要が、三十五年間、一度も無かったのだろう。

持ち帰ります

僕は自社に持ち帰った。上司は、話を最後まで聞かずに言った。

「丸越さんは大事なお客さんだからね。なんとかしよう」

「なんとか、というのは」

「うん、なんとか」

僕はこの会話をどこかで聞いたことがあると思った。しばらく考えて、思い出した。丸越の会議室Cで、何度も聞いている。

同じ言葉が、机の両側で使われている。発注側と受注側という、本来は利害の反対側にいるはずの二人が、まったく同じ言い方で、まったく同じものを避けている。それはなんだか、向かい合わせに置いた二枚の鏡のようだった。あいだには何も無いのに、無限に続いて見える。

編者註

当該案件の最終実績工数は、契約工数の一・九倍である。超過分は協力会社側で吸収された。発注側の帳簿には、この一・九倍は一切現れていない。

同社のベンダー評価シートでは、鵜飼の所属会社は五年連続で「協力的」と評価されている。評価項目に、超過工数の負担実績を記入する欄は無い。評価シートの項目は、その会社が何を見ないと決めたかの一覧である。

その夜

家に帰ったのは一時十五分だった。

妻と子どもは寝ていた。僕は台所の明かりだけをつけて、鍋に湯を沸かし、パスタを茹でた。茹で時間は八分。八分というのは、何も考えないでいるには長すぎて、何かを考えるには短すぎる時間だ。

オリーブオイルとにんにくと、冷蔵庫に残っていたアンチョビ。皿に盛って、缶ビールを開けて、音量をいちばん小さくしてピアノ・トリオのレコードをかけた。針が落ちるときの、ぱち、という音が好きだ。あれだけは、どんなに小さくしても聞こえる。

食べながら、僕は十二という数字について考えた。

四月までに本当に対応できるのは十二様式だ。これは希望ではなく、計算だ。計算は、僕がどれだけ誠実であるかとは関係なく、同じ答えを出す。

やれやれ、と僕は思った。

それから、皿を洗って、寝た。

できます

翌週の定例会。四十五分。残り五分のところで、大西さんが言った。

「では、三十七様式、来期四月からということで……大丈夫でしょうか」

部屋が静かになった。柏木さんがにこにこしていた。浅利部長が時計を見た。

僕は、六秒黙った。六秒は、この部屋では長すぎた。

「……できます」

こつん、と音がした。見積書の余白で、小さな青い結晶が固まった。

大西さんがほっとした顔をした。浅利部長が「さすが鵜飼さん」と言った。柏木さんが拍手をしかけて、やめた。

僕は自分の口が勝手に動いたような気がしたが、もちろん、動かしたのは僕だ。

ほんまにできるんか

会議のあと、廊下で郷田さんに呼び止められた。

「おい。ほんまにできるんか」

僕は郷田さんの顔を見た。ずいぶん長いこと、誰にもそう聞かれていなかった。

「……正直、きついです。様式の揺れの調査だけで四か月見てます」

郷田さんはうなずいて、胸ポケットから赤いボールペンを抜いて僕に渡した。

「ほな、そう書け。できる範囲と、できん範囲と、できん理由。三つや。書いたもんは残る。人は忘れるけど、紙は忘れん」

僕はその場で、議事メモの余白に三行書いた。四月時点で対応可能:十二様式。残り二十五様式は揺れの調査が未完了。調査には四か月を要する見込み。

書いた三行は、硬化しなかった。柔らかいまま、紙の上に残った。

その三行は、翌月の浅利部長の報告書には載らなかった。載らないだろうと思っていたので、僕は驚かなかった。

ただ、消えたわけではない。紙は残っていた。五か月後、本社の監査が来たとき、その議事メモは地下三階の「委託案件 綴 第八箱」の中にあった。

そのとき僕はもう、その話を忘れていた。