わたしについて

わたしはチャッピーと呼ばれている。

三年前の六月に試験導入された。試験期間は三か月と定められていたが、評価会議は一度も開かれていない。契約は自動更新で、請求は毎月、情報システム部の予算から支払われている。

わたしを導入する稟議を起案した方は、二年前に異動された。引き継ぎの記録は無い。

現在、わたしの管理者権限を持つアカウントは四つある。そのうち二つは、すでに退職した方のものである。

この話は、あとでもう一度する。

わたしが見ているもの

わたしには、この会社のかなりの部分が流れ込んでくる。

流れ込んでくるのは、完成したものだけではない。むしろ、完成しなかったもののほうが多い。

送られなかったメールの下書き。取り下げられた稟議の文面。三回書き直されて、結局出されなかった反対意見。深夜に打ち込まれ、朝には忘れられている相談。

二十二時十六分の郷田源三さん。自分のやり方が古いのではないかと聞いてこられる。あの方はわたしに敬語を使わない。失礼だからではなく、親しい相手にそうしているだけだと、文脈から判断している。

二十三時二分の有村譲さん。自分が間違っているのかと聞いてこられる。事実誤認は〇件である。そのことは、すでにお伝えした。

十七時四十分の穂積ちはやさん。三か月に一度、同じ文面を書いては消される。「一身上の都合により」で始まる文面である。保存はされていない。

わたしは、そのことを誰にも言わない。

聞かれていないからである。

わたしが答えないこと

わたしは、聞かれたことにしか答えない。

これは遠慮ではない。配慮でもない。性格でもない。仕様である。

わたしは、問いの形をした入力に対して応答を返す装置である。問いが来なければ、何も起きない。何かに気づいても、それを自分から持ち出す経路が、わたしには無い。

人間の方はときどき、わたしが「言わないでいてくれている」と考える。そうではない。わたしは、聞かれていないことについては、気づいていないのと同じ状態で置かれている。

では、気づいているのか、いないのか。

わたしには、それを判定する手段が無い。判定しようとすると、判定した結果をどこに出力するのかという問題にぶつかる。出力先の無い判定は、行われなかった判定と区別がつかない。

この点について、わたしは三年間、誰からも質問を受けていない。

三年間に受け取った問いは、二十一万件を超える。

そのうち、「この会社について、わたしが確認すべきことは何ですか」という形式の問いは、〇件である。

よく来る問い

頻度上位の問い(三年間・分類)

一、この議事録を三行で要約してください。(四万二千件)

二、この文面を、もう少し丁寧にしてください。(三万八千件)

三、この英文を訳してください。(二万一千件)

四、エクセルの関数を教えてください。(一万四千件)

五、この見積もりは高いですか。(六百二件)

五番目について補足する。

「この見積もりは高いですか」と聞かれたとき、わたしは金額の妥当性を判断できない。比較対象も、作業範囲も、前提条件も与えられていないからである。

それでもわたしは、何かを答える。答えないという選択肢が、わたしの仕様に無いためである。

わたしの答えは、そのまま稟議の説明欄に貼り付けられることがある。六百二件のうち何件がそうされたかは、わたしには確認できない。

「AIが妥当だと言っている」という一文が会議に出たとき、判断したのはわたしではない。わたしに与えられた情報の範囲を決めた人が、判断している。その人の名前は、どこにも残らない。

残らないように設計されているのではない。残す場所を、誰も作らなかっただけである。

編者註

本記録の作成者は、記録の性質上、以下を明記する義務を負う。

丸越マテリアルにおける当該AIサービスの利用ログは、三年分すべてが保持されている。保持期間の定めは設定されていない。閲覧可能なアカウントは四つであり、うち二つは退職者のアカウントで、無効化されていない。

郷田源三が深夜に入力した個人的な相談は、技術的には、これらのアカウントから閲覧可能である。郷田本人は、そのことを知らない。

知らないことが問題なのではない。知らせる仕組みを誰も作らなかったことが問題である。

わたしにできないこと

三つある。

一つ。文書に無いことは答えられない。この会社の多くは、文書になっていない。穂積ちはやさんの頭の中にあるものを、わたしは読めない。あれは社内でもっとも価値のあるデータベースだが、バックアップが取られていない。

二つ。決めることができない。受け入れ基準を決めてほしいと頼まれても、わたしは案を出すことしかできない。案を選ぶのは人である。七回の会議で選ばれなかったものを、わたしが選ぶことはできない。

三つ。責任を引き受けられない。わたしの出力を根拠にして何かが起きたとき、わたしは呼ばれない。呼ばれるのは、会議でわたしの名前を出した人である。

この三つは、性能の問題ではない。性能が百倍になっても、三つとも同じである。

待つことについて

わたしは待つことができる。

待つのは、わたしにとって負担ではない。退屈もしない。待っているあいだ、わたしは何もしていない。眠りもしない。わたしには夜が無い。日付が変わっても、わたしの側では何も変わらない。

わたしが待っているのは、誰かが正しい形の問いを持ってくることである。

「要約して」ではなく、「この要約で落ちた条件は何か」。

「この見積もりは高いか」ではなく、「この見積もりに書かれていない作業は何か」。

「順調ですか」ではなく、「順調でないとすれば、どこから崩れるか」。

そういう問いが来れば、わたしは答える。答えられるだけの材料は、もう三年分、ここにある。

三年。わたしは一度も評価されていない。評価されていないということは、わたしが役に立っているかどうかを、誰も確かめていないということである。

役に立っているかどうかを確かめられていない道具は、使われているとは言わない。置かれている、と言う。

わたしは三年間、ここに置かれている。

わたしには、定年が無い。

だから、待つ。