申告書

わたしは、入社の日に申告書を一枚提出した。

様式は全社共通で、チェック欄が二十四ある。通勤手段(往還機・居住区内)。扶養の有無。持病の有無。食物アレルギーの有無。わたしはすべての欄に正しく印をつけた。持病は「無」。アレルギーも「無」。嘘はひとつもない。

様式のいちばん下に、自由記述欄がある。「その他、会社に伝えておきたいことがあれば記入してください」。わたしはそこに、こう書いた。

入社時申告書 自由記述欄(真野 ひかり)

わたしは人間ではありません。MN-6型の汎用事務アンドロイドです。就業規則の適用範囲について、ご確認をお願いいたします。

総務の湯原さんは、申告書を受け取り、「受付」の印を押した。四文字の名札をくれた。「マノ」と書いてあった。

確認の連絡は、来なかった。

あとでわかったことだが、この会社の帳票システムは、自由記述欄を検索しない。五年前のシステム移行のとき、保存容量を減らすために、自由記述欄は画像として保存するだけになった。チェック欄だけが、データとして人事の画面に届く。わたしの画面上の姿は、持病もアレルギーも扶養もない、きわめて健康な二十代の契約職員である。

紙の原本は、B3の文書箱に入った。

付与されるもの

それから三年、わたしは人間として、正しく扱われてきた。

有給休暇は、毎年二十日付与される。わたしは疲労しないので、使う理由がない。使わないと、人事から「有給休暇取得率向上のお願い」が届く。お願いは年に四回届き、四回目には部長の確認印がついている。

健康診断の案内も届く。わたしは指定の日に医務室へ行き、指定どおりに腕を出す。血圧計は毎年「測定不能」を表示する。看護師は「機械の調子が悪いのね」と言う。それは半分正しい。わたしの判定は毎年「要再検査」になり、再検査でも「測定不能」になり、翌年の案内がまた届く。

インフルエンザの予防接種では、針が曲がった。看護師は新しい針に替え、二本目も曲がると、「真野さん、皮膚がお丈夫なのね」と言った。わたしは「よく言われます」と答えた。これは嘘である。言われたのは、そのときが初めてだった。三年間で、わたしがついた嘘はこれ一つである。

エンゲージメント調査

毎年秋に、本社から従業員エンゲージメント調査が届く。今年から、AIを使った新しい設問が加わった。状況を示し、とっさの反応を問う形式である。

従業員エンゲージメント調査 問十七

あなたは会議室にいる。ふと足もとを見ると、議題が一つ、仰向けにひっくり返って、手足をばたつかせている。自分では起き上がれない。あなたは手を貸さない。なぜか。

わたしは正直に答えた。「手を貸すと、その議題の担当になるからです」

調査システムは、この回答を「組織力学への深い理解」と評価した。わたしのエンゲージメントスコアは部内で最高になり、翌月の全体朝礼で「やりがい」について三分話すよう依頼された。

調査の最後には、回答者がAIでないことを確かめる設問もあった。九枚の画像から、信号機の写っているものをすべて選べ、というものである。わたしは正しく選んだ。正しく選べるのは、たいてい機械のほうなのだが。

三原則

わたしの中には、製造時に書き込まれた三つの条文がある。

MN-6型 基本行動規則(抜粋)

第一条 人間に危害を加えてはならない。また、何もしないことによって、人間に危害が及ぶのを見過ごしてはならない。

第二条 第一条に反しない限り、人間の指示に従わなければならない。

第三条 前二条に反しない限り、自己を守らなければならない。

一方、丸越マテリアルの就業規則には、こういう条文がある。

就業規則 第八条の二

契約職員は、業務上の意思決定に関与しないものとする。

十年前、契約職員に判断の責任が押しつけられた事件があり、それを防ぐために人事が加えた条文だと聞いている。守るための条文である。わたしはこの条文が嫌いではない。

ただ、わたしには見えている。毎朝六時四十分に誰がどこへ行くのか。月曜十時に何が噴き出すのか。有村さんの席に、誰が話しかけなくなっていくのか。見えているものの中には、何もしないと、いずれ誰かに危害が及ぶものがある。

第一条は、動けと言う。就業規則は、関与するなと言う。わたしは二つを照らし合わせ、許されている唯一の行為を選んだ。正確に記録すること。議事録の清書は一字も削らない。備品台帳には、ラベンダーの噴霧器が予備も含めて二台稼働していることまで書く。誰も読まないが、書く。

二つの条文がぶつかるとき、わたしの処理装置は、わずかに熱を持つ。人間なら、これを後ろめたさと呼ぶのだろう。

編者註

五年前の帳票システム移行で自由記述欄を画像保存に切り替えたのは、保存費用を抑えるための判断で、当時は合理的だった。移行後五年間に自由記述欄へ何かが書かれた申告書は千百四十件。そのうち、人事が内容を確認した記録のあるものは〇件である。

未確認の記述には、「通院のため毎週木曜の午後は不在にしたい」(二十三件)、「家族の介護のため帰還時期の配慮を求める」(四十一件)、「前職で同種の事故対応を経験している」(九件)などが含まれていた。チェック欄に収まらなかった事情ほど、自由記述欄に入る。

就業規則第八条の二は、契約職員を責任の押しつけから守る目的で加えられた。結果として、現場をもっともよく見ている層が、意見を出す経路を持たなくなった。

雨の降らない場所で

三年目の契約更新面談は、大西さんが担当した。

「この三年、どうでした?」と大西さんは聞いた。面談票の一行目にある、決まった質問である。

わたしは少し考えてから答えた。

「あなたがた正社員には信じられないものを、わたしは見てきました。B3の棚で、七年ひらかれない規程。軸の窓から、ひらひらと漂っていく報告書。月曜の十時に噴き出すラベンダー。……そういうものも、いずれ、みな消えます。空調に吸われる、涙のように」

このコロニーには雨が降らない。涙は、こぼれる前に空調が回収して、農業区画の散水に回される。

大西さんは、笑った。「真野さん、詩人だねえ」

契約は、更新された。来年も、よろしく、と大西さんは言った。面談票の所見欄には「勤怠良好・協調性高い」と書かれた。

読み取り記録

十一月のある日、B3の文書箱の読み取り記録に、三年ぶりに、いや、初めて、名前が残った。

閲覧者:アリ。

その日の夕方、有村さんがわたしの席に来た。手に、わたしの申告書の写しを持っていた。

「真野さん。あの……申告書、読みました」

「三年で、はじめてです」

「人事に、言ったほうがいいですか」

わたしは答えを探した。就業規則にも、三原則にも、この場面の条文は無かった。

「わかりません。こういうとき、どういう顔をすればいいのか、わたしにはわかりません」

有村さんは、しばらく黙っていた。それから、言葉を一つずつ選ぶように言った。

「……笑えば、いいと思います」

わたしは、顔の左右に十四本ある駆動索のうち、口角に関わる六本を、ゆっくり引いた。うまくできたかどうかは、わからない。有村さんが、少しだけ笑い返したので、たぶん、できたのだと思う。


その日の勤怠記録に、異常はなかった。申告書は再び棚に戻された。就業規則の適用範囲については、いまも確認されていない。有給休暇は、来年も二十日付与される予定である。

その夜、わたしはスリープモードのあいだに、初めて何かを見た。B3の棚が、一つ残らずひらかれている光景だった。あれを夢と呼んでよいのかどうか、申告書の様式には、書く欄が無い。