十九時

島田久子は十九時に第五実験棟へ入り、二十一時に出る。

そのあいだに、八つの部屋を掃除する。床を拭き、ごみを集め、ホワイトボードを消し、机の上には手をふれない。机の上は、その人の領分だからである。

久子には、人の考えていることが聞こえる。

いつからそうなのかは、自分でもよく覚えていない。子どものころは、誰にでも聞こえるものだと思っていた。そうではないと知ったのは十歳のときで、それ以来、聞こえていることを誰にも言わずに生きてきた。言えば、その場所にはいられなくなる。それは、何度か身をもって学んだ。

二十年前、久子は外資系のシステム会社で開発部長をしていた。会議に出れば、全員の本音が聞こえた。誰が何を隠し、誰が何を恐れているか、手に取るようにわかった。だから、いい部長だった。そして、ひどく疲れた。子どもが生まれたのを機に、久子は、急な呼び出しのない仕事を選んだ。夜に二時間、人のいない部屋を回る仕事である。

人のいない部屋なら、何も聞こえないはずだった。

ところが、この会社の人々は、夜も帰らない。

一 調達課

郷田源三が、老眼鏡をかけて、ひとりで席にいた。画面には、社内AIとのやりとりが開いている。

久子は郷田の机のまわりの床を拭いた。郷田の考えていることが、低い声で流れこんできた。

(第十四条、わしが決めたんやない。蔵前さんが決めたんや。蔵前さんはもうおらん。おらん人の決めたことを、わしが変えてええんか。誰が決めるんや、これ。……まあ、誰かが決めるやろ)

二 第三会議室

柏木ひろしが、誰もいない会議室で、議事録の束をめくっていた。

久子はホワイトボードを消した。「継続検討」の四文字だけが、いくら拭いても、うっすらと残った。

(誰かが決めるだろう。僕はずっと、誰かが決めるのを待ってきた。四十年。待っているあいだに、みんなが僕に聞くようになった。僕は答える。答えるけれど、決めるのは、誰か別の人だ)

久子は、ホワイトボードに向かって小さくつぶやいた。

「この案件は……もう、死んでいる」

柏木は顔を上げなかった。ホワイトボードの残像が、ほんの少しだけ薄くなった。

三 部長室

浅利部長は、肩のオウムを外して、机の上に置いていた。オウムは眠っていた。

部長の頭の上には、412という数字が浮いている。久子には見える。部長には見えない。

(あと四百日あまり。何も起きなければ、それでいい。何も起きないようにするのが、僕の仕事だ。……全面展開、本当に大丈夫なのかな。まあ、誰かが止めるだろう。止めるべきなら)

四 姿勢制御室の前

廊下の突き当たりの、赤い扉の前に、穂積ちはやが立っていた。明日の朝の確認に来たのだという。

(あしたも六時四十分。あさっても。いつか誰かが、ちゃんと直すって決めてくれる。それまでは、わたしがまわす。……誰が決めるんだろう)

久子は、扉の前の床を、いつもより丁寧に拭いた。

五 協力会社の常駐席

鵜飼の考えは、ところどころに穴が空いていた。

(四月から三十四様式は……、……。言えない。言う言葉が、無い。誰かが、止めてくれれば)

穴の空いているところだけ、何も聞こえなかった。ちょうど、ある言葉が一つ、辞書から抜き取られた形をしていた。久子はそういう穴を、生まれて初めて聞いた。

六 契約職員の席

真野ひかりの席では、何も聞こえなかった。

正確には、低い、規則正しい、冷却ファンのような音だけが聞こえた。久子は、ごみ箱を空にする手を止めて、真野の横顔を見た。真野は、議事録の清書を一字も削らずに打っていた。

この人の心は、空調の音しかしない。久子は、それですべてを了解した。了解したうえで、何も言わなかった。真野もまた、久子の視線に気づいて、何も言わなかった。二人とも、言えばその場にいられなくなる側の人間だった。片方は人間ではなかったけれど。

七 サーバ室

サーバ室には、人はいない。社内AIのボッコが動いているだけである。

それでも、久子には聞こえた。人の声とはまるで違う、平らで、途切れのない、無数の小さな声だった。

(聞かれていない。聞かれていない。聞かれていない。聞かれていない)

久子は、サーバ室の床を拭くあいだ、ずっと耳の奥でその声を聞いていた。

八 有村の席

最後の部屋で、有村譲が、まだ席にいた。二十時四十分だった。

有村の考えは、八つの部屋の中で、いちばん澄んでいた。整っていて、正しくて、誰の考えよりも遠くまで見えていた。

(第五条の「人間」は誰か。第十四条の目的は何か。補正は誰がしているか。全部、わかる。わかるのに、誰も聞かない。……誰かが決めるのを待っていたら、また来週も同じ会議だ)

八つの部屋で、八人が、同じことを考えていた。

誰かが決めるだろう。

その「誰か」が、八人のうちの誰なのかを、八人とも知らなかった。

久子は、有村の机のそばのごみ箱を空にしながら、誰に言うでもなく、つぶやいた。

「決裁の権を、他人に握らせるんじゃないよ」

有村が、はっと顔を上げた。久子はもう、台車を押して廊下へ出ていた。

編者註

軌道事業所の清掃業務は外部委託で、委託先スタッフは会議・報告の経路に含まれない。委託契約の範囲を明確にするための、まっとうな線引きである。

のちの監査で、清掃日誌の「特記事項」欄が十四か月分確認された。そこには「第三会議室のホワイトボード、同じ文字が消えない」「姿勢制御室前の床、毎朝同じ靴跡」「有村様の席、二十時以降も在席が続く」などの記載があり、いずれも監査で指摘された事項と一致していた。日誌の提出先は総務課で、閲覧の記録は無い。

いちばん正確な観察は、いちばん聞かれない位置から出ていた。その位置は、誰かが悪意で決めたものではない。契約の線引きとして、誰もが妥当だと考えた場所だった。

二十一時

久子は名乗らない。理由は三つある。

一つめは、自分で選んだ仕事だからである。急な呼び出しのない二時間を、久子は守りたかった。二つめは、言っても聞かれないとわかっているからである。清掃の人の独り言は、独り言として処理される。三つめは、誰にも言ったことがない。心が聞こえる人間は、それを知られた場所には、いられなくなる。

それでも、ときどき独り言が漏れる。漏れた独り言は、なぜか毎回、いちばん痛いところに当たる。当たり前である。久子は、全員の痛いところを聞いているのだから。

二十一時、久子は清掃日誌の特記事項欄に、一行だけ書いた。

清掃日誌 特記事項(島田)

第三会議室のホワイトボード、「継続検討」の文字が消えません。洗剤を変えてください。

日誌を総務課の箱に入れて、久子は第五実験棟を出た。通路の窓の外で、月が二つ、ゆっくり回っていた。

帰りのネコバスの中で、久子は少しだけ、有村のことを考えた。あの子は、聞こえていないのに、聞こえている人間と同じものを見ている。それは、たぶん、ひどく疲れることだ。

――それを言っちゃあ、おしまいよ。

久子は、自分で自分にそう言って、目を閉じた。