見積もりは、顔を見て聞く
郷田源三には、一つだけ譲らないことがある。
見積もりの説明は、対面でしか受けない。画面ごしの説明は、聞くには聞くが、判子はつかない。
このきまりは、郷田が考えたものではない。二十二年前、当時の調達部長だった蔵前という男が決めた。画面ごしの見積もり説明で、肝心の数字を三か月伏せられた案件があり、蔵前はその始末書を自分で書いた。書き終えて、ペンを置いて、こう言った。
「顔の見えん相手とは、判子つかん」
その一言が、翌月、調達規程の第十四条になった。「見積もりの説明は、対面にて受けること」。改定理由の欄は空白のままだった。理由は、書かなくても全員が知っていたからである。
十年前、本社は資材調達の窓口を軌道事業所へ移した。軌道で使うものは軌道で買うほうが効率がよい、という判断で、これも筋の通った話だった。郷田は調達課ごと宇宙へ上がった。
第十四条も、一緒に上がった。
それ以来、丸越に見積もりを出す会社は、説明のたびに地上から往還機に乗る。行きに三日、帰りに三日。説明は一時間である。
三十五分
その日やってきた協力会社の一行は、四人とも顔が緑色だった。宇宙酔いである。リーダーの鵜飼は、紙袋を一枚、上着のポケットに入れたまま、三十五分の説明をやりとげた。
精度は九十二パーセント。導入は六か月。運用は簡単。費用は三千二百万円。
説明が終わると、郷田は腕を組んだまま、しばらく天井を見ていた。外殻の天井は低い。一Gの重さが、そのまま肩にのっている。
「あんた、名前なんていうたかな」
「鵜飼です」
「鵜飼さん。ええ説明やった。わかりやすい。ほんで、な――その三十五分で、あんた、できひんことを一個も言うてへん」
鵜飼は、リスクは十二枚目に、と言いかけた。
「書いたあるやつは、もうリスクやない。片づいたぶんや。わしが聞きたいのは、書いてへんほうや。持ち帰りな。持ち帰って、持ってこい」
「……往復で、六日かかりますが」
「六日で人間は変わらん。見積もりは変わる」
会議室を出るとき、郷田は柏木の肩を叩いて言った。
「柏木はん。決めへん会議は、ただの会議や」
柏木は、うん、まあ、そうだねえ、と笑った。何も決まらなかったが、その日の会議は気持ちよく終わった。
ふくらむ
それから先のことは、誰が悪いという話ではない。ただ、ふくらんだ。
協力会社は、毎月四人を往還機に乗せた。往還機の会社は、月曜朝の便を「見積説明便」と名づけて、座席を二割増やした。酔い止めの製薬会社から、丸越調達課あてに感謝状が届いた。郷田はそれを、意味がわからないまま壁に貼った。
見積書には、新しい行が生えた。
見積書 明細(抜粋・年度順)
対面説明に係る軌道往還費 一式
往還中の宇宙酔いに伴う作業効率低下の補填 一式
往還六日間に陳腐化した技術情報の再調査費 一式
上記を避けるための軌道常駐拠点の賃料 一式
常駐拠点の人員が地上に帰省するための往還費 一式
三年目、本社の経営企画が気づいた。軌道で買うものは、なぜ地上で買うより十八パーセント高いのか。本社は外部のコンサルタントに調査を依頼した。
コンサルタントは調査を終え、報告に来た。調査結果は見積もりの一種なので、説明は第十四条にもとづいて対面で受けることになった。コンサルタントは往還機に乗った。その往還費は、次の調査費に計上された。
報告書には、高い理由が十一個並んでいた。宇宙酔い、真空、為替、保険、軌道上の倉庫代。第十四条は、どこにも出てこなかった。
誰も、ルールのせいだとは言わなかった。ルールが、あまりにも当たり前の場所にあったからである。当たり前の場所にあるものは、壁と同じで、誰も見ない。
二十二時十六分
その夜、二十二時を過ぎても、郷田は席にいた。
フロアには誰もいない。窓の外を、月が二つ、ゆっくり回っていく。郷田は老眼鏡をかけて、社内AIの画面を開いた。誰にも言っていないが、ここ半年、ときどきこうしている。
チャット履歴(郷田 / 二十二時十六分)
なあボッコ。わしのやり方、古いんかな。
ご自身のやり方が古いのではないか、とお考えなのですね。
おまえ、それ、オウム返しやないか。
オウム返しだと感じられたのですね。
郷田は、ふっと笑った。そういえば柏木が言っていた。この名前は、昔の小説に出てくるバーのロボットからとったのだと。客の言ったことを、そのまま、きれいに言い返すだけのロボット。それで客は満足して、また飲む。郷田も子どものころ、貸本屋でその本を読んだ気がする。
郷田は、もう一行打った。打つ前に、少し指が止まった。
チャット履歴(郷田 / 二十二時二十一分)
第十四条で、この十年、なんぼ余計にかかっとる。
軌道移転後の十年間で、対面説明に係る往還費・滞在費・常駐拠点費として見積書に計上された金額は、合計四億一千二百万円です。うち、説明内容が画面越しの資料と同一だった回は、八十九パーセントです。
なんで今まで言わへんかった。
お尋ねがありませんでしたので。
郷田は、しばらく画面を見ていた。
それから窓のほうを向いた。二つの月のうち、青いほうが、ちょうど窓の真ん中に来ていた。
「地球か……。なにもかも、みな、懐かしいのう」
冗談のつもりで口に出したのに、言ってみると、冗談になっていなかった。
郷田の頭の上、十五センチほどのところに、562という数字が浮いていた。地上へ帰る日までの残り日数である。本人には、見えない。
調達規程第十四条は、二十二年前の不祥事を受けて当時の調達部長が定めたもので、制定時の判断は合理的だった。改定理由の欄は制定時から空白である。
十年前の軌道移転は本社の判断で、これも合理的だった。移転にあたって、既存の規程を軌道の条件に照らして見直す工程は設けられていない。
本社が依頼した調達コストの調査報告書には、価格差の要因が十一項目挙げられているが、第十四条への言及は無い。ルールの費用は、ルールの中には書かれない。見積書の中に書かれる。
B3の余白
翌朝、郷田はB3へ降りた。
調達規程の綴りは、記憶よりずっと重かった。第十四条を開く。条文は二行。改定理由の欄は、空白。
理由は、蔵前の頭の中にだけあった。蔵前は十二年前に死んだ。理由は、そのとき一緒に死んだ。理由の書いてへんルールは、理由が死んでも生き残るんや。郷田は声に出して言い、羊の防寒服を着た委託の男が、棚のかげで小さくうなずいた。
郷田は胸ポケットから鉛筆を出し、余白に書いた。
調達規程 第十四条 余白(鉛筆書き)
理由:画面ごしの説明で、数字を伏せられたため。目的は、できひんことを言わせること。対面は、そのための手段にすぎん。――郷田
条文を変えるには、本部長の決裁がいる。決裁は軸の上で行われる。軸の上では、どんな書類も浮いてしまう。郷田にはそれがわかっていたので、条文には手をつけなかった。
そのかわり、席に戻って、鵜飼に一通だけメールを書いた。
「来月の説明は画面でええ。そのかわり、できひんことを三つ、先に紙で寄越せ」
それが規程違反にあたるのかどうかを判断できる人は、軸の上にいて、いつものように浮いていた。
夕方、返事が来た。
「承知しました。できます」
郷田は画面を見て、長いこと黙っていた。それから、誰もいない調達課で、小さく言った。
「……それや。それを、やめえ言うとんのや」