月曜日、十時
第三会議室に十二人が座っている。
軌道事業所 情報システム部 部長 浅利 (帰還まで五百九日)
情報システム課 課長代理 大西
シニアプロジェクトアドバイザー 柏木ひろし (六十三)
調達課 担当課長 郷田源三
施設課 空調担当 主任 (本件と無関係・前の会議から座ったまま)
情報システム課 議事録係 芳山かず子 (二十四)
議題は「社内AIボッコの全社展開について(第四十一回)」。
十時ちょうど、天井の吹き出し口から、ラベンダーの香りが流れてきた。本社の健康経営推進室が「会議の緊張を和らげるため」に推奨し、施設課が毎週月曜の十時に噴霧するよう設定したものである。芳山かず子は、この匂いがどうにも苦手だった。嗅ぐと、頭の芯が少しだけ浮く。
「わからないことは、なんでも聞いてね」と柏木が言った。会議はいつもこの一言で始まる。
大西が手を挙げた。「試験は定型の三様式に絞って、十一月末までに、私が結果をまとめます」
悪くない、とかず子は思った。範囲があって、期限があって、名前がある。議事録の決定事項欄に、初めて何かが書ける。
柏木が、腕を組んだまま、ゆっくり首をかしげた。
「うーん……。そうじゃないんだよなあ」
柏木の口から、白いものが漏れた。霧である。霧は空調の流れに乗って、会議室をひと回りし、十二人の鼻と口に、平等に入っていった。大西が、まばたきを三回した。自分がいま何を言ったのか、思い出せない顔をしていた。
「では、継続検討ということで」と浅利部長が言った。
かず子は決定事項欄に「継続検討」と打った。ラベンダーが、急に濃くなった。床が、すうっと遠のいた。
月曜日、十時(二回目)
気がつくと、かず子は第三会議室の椅子に座っていた。
十二人が座っている。字幕が出ている。施設課の主任が、前の会議から座ったままでいる。天井から、ラベンダーの香りが流れてくる。
「わからないことは、なんでも聞いてね」と柏木が言った。
かず子は、自分の手を見た。震えていた。全部、覚えていた。大西が手を挙げることも、三様式と十一月末のことも、そのあと柏木が首をかしげることも。
――時間を、かけたのだ。
大西が手を挙げた。「試験は定型の三様式に絞って――」
かず子は立ち上がった。「それで決めましょう! 三様式、十一月末、担当は大西さん。いま、ここで」
全員が、やさしい顔でかず子を見た。
「芳山さん、いい質問だねえ」と柏木が言った。質問ではなかった。「でもね、うーん……そうじゃないんだよなあ」
霧。継続検討。ラベンダー。床。
三回目から十六回目まで
三回目、かず子は霧が出る直前に息を止めた。四分十二秒止めた。顔が紫色になったところで「継続検討ということで」が聞こえ、彼女は椅子ごと後ろへ倒れた。
五回目、かず子は非常用ロッカーから船外用の簡易マスクを持ち出した。霧は効かなかった。彼女だけが決定を覚えていた。しかし決定は、覚えている人が一人では成立しない。
七回目、かず子は会議の全発言を、言われる前に先回りして読み上げた。全員が感心した。「芳山さん、予習してきたの? えらいねえ」。決定事項欄には「継続検討(芳山さんの予習に感謝)」と書かれた。
九回目、かず子はラベンダーの噴霧器のコンセントを抜いた。十時ちょうど、予備の噴霧器が作動した。施設課が二重化していたのである。止まると困る設備は二重化する。正しい判断である。
十一回目、かず子はボッコに決めてもらおうとした。ボッコは答えた。「最終判断は人間が行うことになっています」。全員が、それはそうだ、とうなずいた。うなずいたまま、誰も最終判断をしなかった。
十三回目、半泣きのかず子の肩に、柏木がそっと手を置いた。
「芳山さん。あきらめたら、そこで継続検討だよ」
励ましだった。心からの、混じりけのない励ましだった。かず子は、本当に泣いた。
十六回目、かず子は会議に出なかった。書庫へ行った。
書庫
過去の議事録は、六年分、三百十二回ぶんあった。かず子は全部を印刷した。
一枚目を見る。二枚目を見る。三十枚目を見る。百枚目を見る。
同じだった。日付と回数のほかは、一字一句、同じだった。出席者も、議題も、発言の要旨も。決定事項欄には、どの紙にも「継続検討」とだけあった。机の上に積み上がった三百十二枚が、全部同じ顔をして、かず子を見上げていた。かず子は、背中が冷たくなるのを感じた。ずっと同じ一行を打ちつづける、雪に閉ざされたホテルの男の話を、どこかで読んだことがある。
原因は、議事録の雛形にあった。
「定例会議事録_最新」というファイルの右上に、小さなボタンがついている。「前回の内容を引き継ぐ」。押すと、前回の議事録が丸ごと複製され、日付だけが今日に変わる。六年前、議事録係が三つの会議を掛け持ちしていた時期に、誰かが善意で作ったものだった。便利だったので、以後の議事録係は全員が押した。かず子も、配属の初日から押していた。
会議は、前回の議事録の確認から始まる。前回が同じなので、会議は同じところへ着く。同じところへ着いた会議の議事録は、また次の週に複製される。
かず子は、三百十二枚の真ん中で、しばらく動けなかった。
時をかけていたのは、わたしじゃなかった。会議のほうだった。
自分が十六回やり直したのが一日の出来事だったのか、十六週の出来事だったのか、彼女にはもうわからなかった。議事録を見ても区別はつかない。日付のほかは、同じだからである。
「前回の内容を引き継ぐ」ボタンは、議事録係の負担を減らすために作られたもので、作成時の判断は合理的だった。作成者はすでに異動している。ボタンの存在は、引き継ぎ書にも書かれていない。
軌道事業所の定例会議事録三百十二回分のうち、決定事項欄が「継続検討」のみであった回は二百九十七回。残る十五回は会議自体が中止された回である。雛形には「決定者」「期限」の欄が無く、柏木の氏名が決定者として記録された回は、四十年の勤続を通じて一度も無い。そもそも、記録する欄が無かった。
未来から来た人
書庫の扉が開いて、柏木が入ってきた。
柏木は、机の上の三百十二枚を見ても、驚かなかった。一枚を手に取って、懐かしそうに眺めた。
「芳山さん、見つけちゃったんだねえ」
「柏木さんは、知ってたんですか」
「知ってた、というかね。僕は六年、この会議に出てるから」柏木は笑った。いつもの、やさしい、何も決めない笑い方だった。「僕は四十年、誰かが決めるのを待ってたんだよ。待っているあいだに、みんなが僕に聞くようになった。聞かれたら答える。答えるけど、決めない。決めたことがないから、決め方を知らないんだ」
かず子は何か言おうとした。柏木は、彼女の顔の前で、小さくため息をついた。
「このことは、忘れたほうが楽だよ。……そうじゃないんだよなあ、本当に」
霧が、かず子の鼻先に流れてきた。
霧がとどく前の、ほんの二秒のあいだに、かず子は手元の端末で雛形を開き、決定事項欄の下に二行だけ打ち込んだ。
定例会議事録_最新(雛形)に追加された欄
決めた人:
期限:
柏木は書庫を出ていくとき、振り返らずに言った。
「来週で、待ってるよ」
月曜日、十時(次の週)
十時ちょうど、ラベンダーの香りが流れてきた。
かず子は議事録の雛形を開いた。「前回の内容を引き継ぐ」ボタンを押しかけて、指が止まった。決定事項欄の下に、見覚えのない欄が二つあった。決めた人。期限。
誰が足したのだろう、とかず子は思った。思い出せなかった。ただ、なぜだか胸の奥が少しだけ痛くて、懐かしかった。
その日の会議も、継続検討で終わった。決めた人の欄は、空いたままだった。
かず子は少し考えてから、空欄に「(未定)」と打った。
六年ぶりに、議事録が、日付以外の場所で前の週と違った。