スパゲティーとビールと協力会社

僕は四十一歳で、そのとき居住区の狭いキッチンで、スパゲティーを茹でていた。

丸越の案件を担当して八年になる。最初の五年は地上から往還機で通い、あとの三年はコロニーに住んでいる。会社が軌道に常駐拠点を借りたのだ。対面でしか見積もりを聞かない調達課長がいるので、そのほうが安くつく、という計算だった。計算は正しかった。そして僕は、地球から三十八万キロ離れた場所で、ひとりでスパゲティーを茹でることになった。

農業区画の大麦で醸造したビールは、地上のものより少し薄い。でも悪くない。古いレコードをかけて、薄いビールを飲みながら、麺が茹で上がるのを待つ。それが僕の一日でいちばんまともな時間だった。

三年前、妻が家を出ていくとき、僕に最後にひとつ質問をした。「あなたは、わたしに何か言いたいことはないの?」。僕は少し考えて、「いいえ」と答えた。それが、僕が最後に口にした「いいえ」だったと思う。

仕事では、一度も言ったことがない。

丸越の定例会の議題は、いつも三つしかない。進捗報告。質疑。次回の予定。断る理由を説明するための時間は、どこにも用意されていない。用意されていない場所で、断る理由を一から説明するのは、エレベーターの中でオーケストラを指揮するようなものだ。だから僕は、いつも「できます」と言う。

このコロニーの空気は乾いていて、少しだけ真空の味がする。口に出した「できます」は、その空気に触れると小さな透明の粒になり、見積書の上にころりと落ちる。粒は硬く、二度と曲がらない。僕の担当している見積書の束には、八年ぶんの粒が、琥珀に閉じこめられた虫みたいに並んでいる。

やれやれ、と僕は思った。スパゲティーが茹で上がった。

辞書

その朝、大西さんから連絡があった。

「鵜飼さん、来期の全社展開なんですが。三十七様式すべてで、四月から、いけますか」

三十七様式のうち三十四様式は、まだ精度を測ってもいない。僕は口を開いた。今回こそ、ちゃんと首を横に振るつもりだった。

何も出てこなかった。

喉の奥で、言葉の形をした空洞が、ひゅうと鳴った。次の瞬間、僕の口は勝手に動いた。

「できます」

透明な粒が、ころりと見積書の上に落ちた。

部屋に戻ってから、社内の通知を探した。二週間前の日付で、一通、届いていた。

お知らせ:共有辞書の最適化について(本社 情報システム部)

軌道・地上間の通信量削減(目標十八パーセント)のため、共有辞書のうち、過去三年間の会議記録において使用実績のない語彙を整理いたしました。整理対象の語彙は以下の五語です。業務への影響はありません。

いいえ/できません/無理です/断る/見送ります

このコロニーでは、言葉は共有辞書に登録されている。辞書に無い言葉は、口から出てこない。どうしてそうなっているのか、誰も知らない。そういうものなのだ。重力が外側に向かってかかるのと、たぶん同じくらいには。

編者註

ここから先、この話の本文には、上に線を引いて示した言葉が一度も出てこない。探してもらってもかまわない。消えた言葉は、どうしても必要な場所でだけ、線を引いた残像として示す。

辞書の整理は、本社が定めた通信費削減の目標にもとづき、社内AIが使用頻度の閾値に従って自動で実行した。削除前に人が確認する工程は「使われていない語の削除は業務に影響しない」という理由で省かれていた。この理由も、それなりに合理的である。

三年間の会議記録で、これらの語の使用実績は〇件だった。使われていなかったのは、必要がなかったからではない。使う場が、日程に無かったからである。

やれやれ

やれやれ、と僕は言った。

その言葉は、まだ辞書に残っていた。僕が毎日使っているからだ。

僕は洗面台の鏡に向かって、首を横に振る言葉を言おうとしてみた。唇は正しい形に動いた。でも、音にならなかった。古い映画の、音声だけが抜け落ちた場面みたいだった。三回試して、三回とも、最後に「できます」が出てきた。鏡の前に、透明な粒が三つ落ちた。

僕は別の道を探すことにした。言葉というのは、地下鉄の路線図に似ている。ひとつの駅が閉鎖されても、たいてい、別の線で近くまでは行ける。

翌日の定例会で、本社の担当者が画面ごしに言った。

「鵜飼さん。御社に、ひとつ申し出があります。全社展開を、四月から、御社にお願いしたい」

それは文字どおり、拒む手段のない申し出だった。昔の映画で、マフィアのドンが似たようなことを言っていた気がする。あの映画では、申し出を拒んだ男のベッドに、馬の首が入っていた。ここでは、そういう物騒なことは起きない。ただ辞書が、黙って整理されるだけだ。

僕は、ある漫画の、偏屈な漫画家の決め台詞を思い出した。自分を強いと思っている相手にこそ、きっぱり首を振ってやる、というあれだ。あれなら、いけるかもしれない。

僕は、腹に力をこめて言った。

「だが――断る……できます」

会議室に、短い沈黙が流れた。それから柏木さんが、にこにこして言った。

「鵜飼さん、いま『だが』って言った? 頼もしいねえ」

粒が、ころりと落ちた。

鉛筆

その夜、僕はスパゲティーを茹でなかった。台所のテーブルに見積書を一枚裏返して置き、鉛筆を削った。

書くことなら、できるかもしれない、と思った。辞書が管理しているのは、口から出る言葉だけのはずだ。

僕は書きはじめた。最初の一行の、最後の数文字のところで、手が止まった。鉛筆の先が紙の上で、ぴたりと動かなくなった。書けなかった。手も、口と同じ辞書を使っているらしかった。

僕はしばらく、止まった鉛筆の先を眺めていた。午前一時の台所は静かで、冷蔵庫だけが、遠くで考えごとをするように低く唸っていた。

それから、ふと気づいた。首を振る言葉は消えた。でも、条件を書く言葉は、全部残っている。「必要」も「場合」も「保証」も、毎日の会議で使われているから、辞書の中でぴんぴんしていた。

僕は消しゴムで一行目を消し、書き直した。

見積書の裏(鉛筆書き・鵜飼)

一、残る三十四様式の本番開始には、精度測定に三か月が必要。四月開始の場合、精度は保証されない。

二、四月時点で、現場の目視確認の工数は減らない。減らすには、根拠表示の追加開発が必要。

三、運用手順書の作成は、この見積もりに含まれていない。

書き終えると、それは、きちんとした拒絶の手紙に見えた。首を振る言葉は、ひとつも使っていないのに。拒絶というのは、条件の形をしていれば、まだ書けるのだ。

僕はその紙を持って、二十二時十六分の調達課へ行った。郷田さんは、いつものように老眼鏡をかけて、ひとりで席にいた。紙を読み終えると、郷田さんは長い息を吐いた。

「……これや。最初から、これが欲しかったんや」


議事録

でも、それで何かが変わったわけではない。

社内AIが書き起こした翌週の議事録には、こう記録されている。「鵜飼:全社展開について、四月から対応できます」。正式な記録は、それだけだ。僕の鉛筆の紙は、郷田さんの机の引き出しに入り、引き出しがいっぱいになると、B3の文書箱に移された。B3で、それはたぶん、とても重い。

僕は部屋に帰って、遅いスパゲティーを茹でた。薄いビールの栓を抜き、窓の外を見た。月が二つ、並んで浮かんでいた。

月は、二つとも何も言わなかった。月には、首を振る必要がないのだ。

やれやれ、と僕はもう一度言った。その言葉はまだ、辞書に残っていた。