第百十二日
完璧な議事録などといったものは存在しない。完璧な決裁が存在しないようにね。
学生のころに読んだ小説の書き出しを、ぼくはそんなふうに書きかえて、日報の一行目に書いた。誰も読まないことはわかっている。でも、書きかえられるようになったことが、少しうれしかった。三か月前のぼくには、書き出しというものが、どこから始まるのかもわからなかった。
最近、ものが見えるようになってきた。
見えるというのは、たとえば、会議の資料を三分ながめると、どこに柱があって、どこが抜けているのかがわかる、ということだ。抜けている場所は、白くて、四角くて、ちょうど地下三階の蛍光灯が一本切れたところのように見える。前は、資料ぜんたいが、その白い四角だった。
見えるようになったので、聞いてみることにした。
黙っちゃだめだ
最初の質問をした日のことは、よく覚えている。
定例会の前に、ぼくはトイレの鏡の前で、三回言った。黙っちゃだめだ。黙っちゃだめだ。黙っちゃだめだ。昔のアニメの少年が、乗りたくもないものに乗る前に、同じように自分に言い聞かせていた。少年は結局、乗った。ぼくも、会議室に入った。
ぼくの肩には、ほかの人と同じようにオウムがとまっている。ただ、ぼくがしゃべるのが遅いので、オウムはいつも途中で寝てしまう。だからぼくの言葉は、言いなおされずに、そのまま相手に届く。
「規程の最終改定日は、いつですか」
大西さんは、少し間をおいて、笑顔で言った。
「ありがとうございます、検討しときます」
十四件
それから五十日間に、ぼくは十四の質問をした。先生に言われたとおり、全部、記録した。
| 日 | 質問 | 相手 | 議事録 |
|---|---|---|---|
| 六十一 | 規程の最終改定日はいつですか | 大西さん | 記載なし |
| 六十四 | 生成AI利用規程の「最終判断を行う人間」とは誰ですか | 柏木さん | 記載なし |
| 六十八 | 三十七様式のうち、精度を測ったのはいくつですか | 大西さん | 記載なし |
| 七十 | 受け入れ条件は件数で決まっていますか | 浅利部長 | 記載なし |
| 七十三 | 「継続検討」の期限はいつですか | 柏木さん | 記載なし |
| 七十七 | 本番の受け入れ判定は、誰がしますか | 浅利部長 | 記載なし |
| 八十 | 姿勢制御の改修チケットは出ていますか | 施設課 | 記載なし |
| 八十五 | 見積もりに含まれないものは何ですか | 定例会 | 記載なし |
| 八十九 | 要約で消えた「ただし」は、どこへ行きましたか | 課長 | 記載なし |
| 九十二 | 文書管理の委託契約は、誰が更新を決めていますか | 総務 | 記載なし |
| 九十六 | 辞書から消えた語の一覧は、どこで見られますか | 本社 | 記載なし |
| 百 | ラベンダーの噴霧は、誰なら止められますか | 施設課 | 記載なし |
| 百五 | エヌ本部長は、報告を読んでいますか | 浅利部長 | 記載なし |
| 百九 | 決定事項の「決めた人」の欄は、なぜいつも空欄なのですか | 定例会 | 記載なし |
「ありがとうございます、検討しときます」は、よくできた言葉だと思う。
断りではないので、反論ができない。期限がないので、終わらない。お礼の形をしているので、角も立たない。言われたほうは、何かを受けとった気がして、席に戻る。席に戻ってから、自分が何も受けとっていないことに気づく。
検討されたかどうかを、ぼくが確かめる方法は三つしかない。議事録に書かれたか。次の会議の前提になったか。誰かに作業の指示が出たか。十四件とも、三つのどれにも当たらなかった。
軌道事業所で「検討しときます」「検討します」を含む返答が記録上確認できた件数は、この五十日間で六十二件。そのうち、議事録・次回会議の議題・作業指示のいずれかに反映された記録があるものは、三件である。
「検討します」と答えた側に、握りつぶす意図があった例は確認されていない。答えた時点では、全員が本当に検討するつもりでいた。検討を誰が・いつまでに行うかを記録する欄が、どこにも無かっただけである。
事件は
第九十八日の定例会で、来期の全社展開の話が出た。三十七様式で、四月から。協力会社の鵜飼さんは「できます」と言った。透明な粒が、ころりと落ちた。
ぼくは、手を挙げた。声が少しふるえた。
「あの。問題は、会議室で起きてるんじゃありません。……外殻で、起きてます」
となりの人の肩のオウムが、すかさず言いなおした。「課題は、各現場において、多様なかたちで生じております」
会議室の温度が、ほんの少し下がった気がした。誰も、何も言わなかった。浅利部長がやさしく笑って、「有村くん、ありがとう。検討しときます」と言った。これは質問ではなかったので、表には入れていない。返事だけは、同じだった。
同じ言葉
第百三日の定例会で、柏木さんが言った。
「そういえばさ。本番の受け入れ判定って、誰がやるんだっけ」
ぼくが第七十七日に聞いたことと、一字一句、同じだった。
会議室の空気が、ぱっと明るくなった。「さすが柏木さん、よく見てますねえ」。大西さんが感心したように言い、浅利部長もうなずいた。その日の議事録には、こう書かれた。「受け入れ判定の担当について、柏木氏より重要な指摘あり。継続検討」
ぼくは、怒ってはいない。柏木さんは、ぼくの質問を盗んだのではない。たぶん、ぼくが言ったことを覚えていなかった。覚えていないまま、同じことに気づいたのだ。それは、気づくべきことだったという証拠でもある。
ただ、この日、ひとつだけ、わかったことがある。
検討されなかった指摘は、言われなかった指摘と、記録の上ではまったく同じ形をしている。
B3
このごろ、昼休みにB3へ行く。規程が読めるようになった。重さは変わらないが、どこを読めばいいのかがわかるので、持つ時間が短くてすむ。
生成AI利用規程の第五条には、こう書いてあった。「AIの出力は参考情報とし、最終判断は人間が行う」。人間、とは誰なのかは、どこにも書いていなかった。
羊の防寒服の人が、棚のかげから顔を出した。
「読めるようになったんだね」
「はい」
「じゃあ、読むんだよ。読めるあいだは、とにかく読みつづけるんだよ」
B3では、ある人の申告書も読んだ。内容は、ここには書かない。本人には伝えた。それが正しかったかどうかは、まだわからない。
数
先生に言われて、ずっと数えてきた数がある。あいさつ以外で、話しかけられた回数だ。
最初の三十日は、一日平均五・二回だった。第六十日から第九十日までは、一・四回。第百日をすぎてからは、〇・一回になった。十日に一回、ということだ。その一回も、たいていは「コピー用紙、どこだっけ」だった。
一日目のぼくは、何も見えず、たくさん話しかけられていた。百十二日目のぼくは、よく見えて、ほとんど話しかけられない。
見えることと、話しかけられることは、どうやら、同じ棚に一つずつしか載らないらしい。
あしたから、日報の一人称を「私」にする。「ぼく」と書くと、なぜだか、自分のことを書いている気がしないからだ。
――アルジャーノン