二月、視察団

二月の第二月曜、本社の内部監査が軌道に上がってきた。

監査は内部監査室の八木ひとりのはずだったが、往還機には、ほかに八人が乗っていた。役員が二人、広報が二人、カメラマン、健康経営推進室の課長、そして、なぜ来たのか本人たちにもよくわからない総務部の二人である。せっかく軌道に行くなら、という話になったらしい。

往還機の三日間、視察団は大いに盛り上がった。初日の夜には持ちこんだ酒が空になり、二日目には全員が宇宙酔いで青くなり、三日目には回復して記念写真を四百枚撮った。役員の一人は「喫煙所はどこかね」と三回たずね、三回とも「宇宙です」と答えられた。

到着は予定より四十分早かった。往還機の会社が、気をきかせて急いだのである。

総務の湯原は、到着の知らせを受けるなり、フロアに向かって怒鳴った。

「四十秒で支度しな!」

フロアじゅうが跳ね起きた。机の上の書類が引き出しに押しこまれ、ホワイトボードの「継続検討」が拭かれ(消えなかった)、全員の肩のオウムが、いっせいに羽づくろいをはじめた。

視察団は軸の展望室に通され、無重力の中でたちまち散らばった。こぼれた緑茶が丸い玉になって漂い、広報は地球を背景に自撮りをし、役員は窓に額を押しつけて歓声を上げた。土産物屋の「月の石のかけら」が、十分で売り切れた。

八木だけが、外殻へ降りてきた。

あと一つだけ

八木は、よれよれのコートを着た、猫背の男だった。肩には何も乗せていなかった。

「オウム? ああ、あれね。肩が凝るんで、置いてきました」八木は、頭をかいた。「うちのカミさんがね、宇宙に行くなら酔い止めを忘れるなって。忘れましたけどね。えへへ」

八木は、部長室で浅利部長に月次報告の束を見せてもらい、ぱらぱらとめくった。

「この『順調です』の、原稿は、どちらにあります?」

部長の肩のオウムが、なめらかに答えた。「各現場において、着実に推移しております」

八木は、にこにこしたまま、そっとオウムを部長の肩から持ちあげて、机の上に置いた。

「すみませんねえ。部長さんご本人に、うかがってるんです」

浅利部長は、しばらく黙っていた。頭の上の298が、かすかに揺れた。部長は、三十年ぶりに自分の口で報告をした。

「……遅れています。三十七様式のうち、三十四様式は、まだ測ってもいません」

「ああ、そうですか。どうも、ありがとうございます」八木は手帳に書きつけ、立ち上がりかけて、ドアの前で振り返った。「あ、すみません、あと一つだけ。エヌ本部長に、最後にお会いになったのは、いつです?」

「……一度も」

「でしょうねえ」八木は、気の毒そうに笑った。「あの方、四年前に退職されてますから。いま席にいるのは、オウムです。いや、感じのいいオウムですよ」

八木は、そのあと三日間、同じ調子で歩きまわった。郷田には「第十四条の余白の鉛筆、あれ、どなたの字です?」と聞き、芳山には「決めた人の欄、いつからあるんです?」と聞いた。芳山は「わかりません。気がついたら、あったんです」と答えた。八木は、それも手帳に書いた。

最後に八木は、サーバ室で社内AIに一行だけ打ちこんだ。

チャット履歴(八木 / 十六時五分)

この三年間で、誰にも聞かれなかったけれど、聞かれていれば答えられた質問を、重要な順に十個、挙げてください。

その形の問いは、第九条に抵触しません。お答えします。一、姿勢制御の補正は誰が行っているか。二、第十四条の費用はいくらか。三、決定事項欄に記録された決定者は何名か……

八木は、十個ぜんぶを手帳に写した。写し終えると、「なるほどねえ」とつぶやいた。

おーい でてこーい

監査の三日目の午後、軸の展望室の窓に、こつん、と何かが当たった。

視察団が振り向くと、また、こつん、と当たった。それから、こつこつこつと、雨の降りはじめのように数が増えた。

窓の外から、白い四角いものが、次々に張りついてきた。真空で固くなった、紙の束だった。どの束の表紙にも、同じ四文字が印刷されていた。継続検討。継続検討。継続検討。

六年前、施設課は保管スペースを減らすため、使われなくなった紙を投棄口から軌道へ捨てることにした。捨てた紙は、計算どおりなら、いずれ大気圏へ落ちて燃えつきるはずだった。計算は正しかった。ただ、計算の前提になったコロニーの軌道の数値は六年前のもので、その後の軌道修正は反映されていなかった。

以来、この会社で棚上げになった案件は、文字どおり、軌道へ上げられてきた。そして六年かけて、ひと回りして、戻ってきたのである。

空から、魚ではなく、稟議書が降ってきた。視察団は、無重力の中で口を開けたまま、それを見ていた。カメラマンだけが、夢中でシャッターを切っていた。

最後に、小さな石がひとつ、窓の真ん中に当たった。

その瞬間、展望室の通信機から、遠い、かすれた声が聞こえた。

「おーい、でてこーい」

柏木が、真っ青になった。

「あれは……僕の声だ」

六年前、投棄口が完成した日、試しにのぞきこんでそう叫び、記念に持っていた月の石を一つ投げこんだのは、柏木だった。誰も笑わなかったので、柏木はそのことを忘れていた。投棄口のほうは、忘れていなかった。

午後の恐竜

同じ日の午後、第五実験棟の廊下を、大きな、透きとおった影が歩いていた。

首の長い一頭は、十五年前に入れた姿勢制御のソフトだった。のっしのっしと歩くたびに、壁の時計が少しずつ遅れた。そのあとを、二十年前の名札システムが、四文字ぶんの小さな足音でついて歩いた。五年前の帳票システムは、大きな頭と、ひどく短い前脚をしていた。前脚は、自由記述欄のところまで、どうしても届かなかった。

社員たちは、廊下の両側に並んで、黙ってそれを見送った。

「これは、会社の走馬灯なんじゃないですかね」と、清掃の島田がつぶやいた。終わる前に、それまでのことが目の前を通りすぎていく、あれである。

八木が、のんびりとうなずいた。

「走馬灯ってのはね、終わる前に見るもんです。でも、見たあとで終わらないこともある。見たものを、ちゃんと書いておけばね」

台帳

監査の最終日、八木は部の全員を会議室に集めて、たずねた。

「この会社で、いちばん正確な記録をつけてらっしゃるのは、どなたです?」

誰も答えなかった。全員が、誰かが答えるだろう、と思っていた。島田には、それが十二人ぶん、はっきり聞こえた。

やがて、真野ひかりが立ち上がった。契約職員は意思決定に関与しない。だが、記録を出すことは禁じられていない。

「記録でしたら、議事録の清書と備品台帳があります。でも、いちばん正確なのは、わたしのではありません」

真野は八木を連れて、フロアのいちばん端の席へ行った。名札に「アリ」と書かれた机の上に、四百十二行の台帳が置かれていた。真野は、その横に、B3から持ってきた調達規程の綴りと、見積書の裏に書かれた鉛筆の紙と、総務の箱から出した十四か月分の清掃日誌を並べた。

八木は、長いこと、それを読んでいた。読み終えると、眼鏡を外して、目頭を押さえた。

「……この会社で唯一正確だった記録は、いちばん軽く扱われていた人たちの机から、出てきましたねえ」

内部監査報告書(抜粋)

一、過去三年間、定例会の決定事項欄に記録された決定者は〇名である。

二、月次報告では、要約の過程で成果の成立条件(「ただし」「のうち」「未測定」等)が体系的に削除されている。

三、規程の紙原本は最重量区画に保管され、閲覧の記録が無い。自由記述欄の申告千百四十件が未確認である。

四、共有辞書から、否定・拒否を表す語が、人の確認を経ずに削除されている。

五、姿勢制御の補正が一名の手作業に依存し、手順書が存在しない。

総括 いずれも、故意・悪意によるものは認められない。各時点の判断は、それぞれ合理的であった。ただし、その後、誰も見直していない。また、見直すことを、誰の役割とも定めていない。

報告書は軸の役員室へ上げられた。軸の上では、どんな書類も浮いてしまう。八木はそれを知っていたので、報告書の角に穴を開け、細い紐を通して、役員室の机の脚に結んでいった。

「重さが無いなら、紐をつければいいんです」


それぞれの三月

郷田の第十四条は、改定された。改定理由の欄には、初めて一行が書きこまれた。「目的:できないことを、事前に文書で示させること。対面はその手段の一つとする」。翌月の見積書から、往還費の行が消えた。

穂積の改修チケットは、九年ぶりに起票された。業者の回答は七月になるという。それまでのあいだ、穂積は手順書を書きあげ、芳山にハンドルのまわし方を教えた。手順書の最後のページを保存したとき、穂積は誰もいないフロアで、小さく言った。「先生……書けました」

芳山の議事録の「決めた人」の欄に、六年ぶりに名前が入った。「浅利」。決まったのは、全社展開の延期と、試験を三様式に絞ることだった。浅利部長のオウムは、それ以来、机の引き出しで眠っている。

共有辞書には、消えた五つの語が戻された。次の定例会で、鵜飼は一度だけ、小さく首を振ってみせた。「いいえ。四月からは、三様式です」。透明な粒は落ちなかった。やれやれ、と鵜飼は言った。

真野の申告書は、人事に回された。就業規則の適用範囲は、いまも「確認中」である。有給休暇は、来年も二十日付与される予定である。

社内AIの第九条は改められ、求められていなくても重要な事項を、週に一件だけ伝えてよいことになった。ボッコが最初に送った通知は、こうだった。「お尋ねはありませんが、お伝えします。B3点検口横の花に、水が必要です」

島田は、いまも十九時に来て、二十一時に帰る。第三会議室のホワイトボードの「継続検討」は、洗剤を変えたら、ようやく薄くなった。

有村の席は、変わらなかった。会議に呼ばれる回数も、ほとんど変わらなかった。ただ、彼の台帳は、監査対応記録の様式として全社に配られることになった。様式の作成者欄には、四文字の制限なく、本名が印字された。社会的な回復ではない。記録の勝利である。

帰りの往還機に乗りこむ八木の背中を見送りながら、湯原がぽつりと言った。

「あの人、とんでもないものを持っていきましたね」

浅利部長は、少し考えてから答えた。

「……ええ。うちの、議事録です」

編者註

投棄口の軌道計算は、施設課が当時の軌道要素にもとづいて正しく行ったものである。四年前の軌道修正の際、投棄物の軌道を再計算する工程は設けられていなかった。

監査報告書の勧告十一項目のうち、三月末までに実施されたのは六項目。残る五項目は、決めた人と期限が記録されたうえで、「継続検討」とされている。同じ「継続検討」でも、決めた人と期限が書いてあれば、それはもう棚上げではない。

けいかほうこく(さいごの一まい)

三月の最後の日、有村は日報を一枚だけ、最初の日と同じ書き方で書いた。

日報(三月三十一日)

きょうも、話しかけられたかいすうは、すくなかったです。でも、ぼくの台帳は、だれかに読まれました。読まれると、紙はすこしかるくなるみたいです。

まどから、月が二つ見えました。どっちが本社なのか、やっとわかりました。青いほうです。でも、ぼくは、ここにいます。

おちこんだりもしたけれど、ぼくは、げんきです。

ついしん。どうか、ついでがあったら、B3の点検口のよこの花に、水をやってください。かえるくんの、ぶんです。

――ありむら ゆずる