第百九十二日
文章が書けるようになった、と思う。
読み返すと、主語と述語がきちんと対応している。比喩も使える。一日目の日報と並べると、別人が書いたように見える。先生は、回復は直線ではない、と言っていた。私の回復は、少なくとも文章の上では、ほとんど直線だった。
その直線の横に、もう一本、線を引いてみる。挨拶以外で話しかけられた回数である。一日目が十一回。第三十日までの平均が五・二回。第百日以降は〇・一回。こちらは、ほとんど直線で下がっている。
二本の線は、第七十日あたりで交差している。
交差したことに、そのときの私は気づかなかった。気づいたのは、交差してから五十日ほどたってからである。
等価について
一日目の私は、何も見えず、何も言えず、ただ席に座っていた。
百九十二日目の私は、はっきりと見え、正しく言え、そして、ただ席に座っている。
組織の側から見たとき、この二人は、出力において完全に一致する。どちらも、何も決めず、何も変えず、八時五十分に来て十七時四十分に帰る。違いはひとつだけで、あのころはわからないことが苦しかったが、いまはわかることが苦しい。
私の机には、宛先のない作業が積まれていく。コピー用紙の補充。旧サーバの棚卸し。B3の文書箱のラベルの貼り替え。どれも、名前の書かれていない付箋と一緒に、朝、机の上に置かれている。誰が置いたのかは、わからない。誰かが置いた、ということだけがわかる。
認めたくないものだな、と私はときどき思う。自分自身の、正しさゆえの孤立というものを。昔、スペースコロニーを舞台にしたアニメで、仮面の男が似たことを言っていた。あれは若さについての台詞だった。私はもう若くはないので、代わりに正しさを入れてみた。驚くほど、すんなり収まった。
台帳
それでも私は、記録を続けている。先生に言われたからでもあるし、ほかにすることがないからでもある。
台帳は四百十二行になった。十四件の質問と、その返事。調達規程第十四条の余白にある、郷田さんの鉛筆の書きこみ。鵜飼さんが見積書の裏に書いた三つの条件の写し。総務の箱に入っていた、清掃日誌の特記事項。ボッコが答えた三つの数字。決定者〇件。該当する記述なし。四・一秒。
台帳には、この会社で決まらなかったことが、決まらなかったという形で、正確に並んでいる。空欄は、空欄として記録されている。
この台帳を読む人は、いない。
かえるくん
第百八十九日の夜、二十三時十分に居住区の部屋へ戻ると、巨大な蛙が、私の小さなテーブルの前に座っていた。
二本の後ろ脚で立てば、二メートルは優にあるだろう。緑色で、つやつやしていて、胸のあたりがゆっくり上下していた。テーブルの上には、湯のみが二つ置かれていて、どちらにも緑茶が入っていた。農業区画の茶葉の匂いがした。
「おかえりなさい、有村さん」と蛙は言った。落ちついた、よく通る声だった。「勝手に上がって、お茶をいれました。ぼくのことは、かえるくんと呼んでください」
「かえるさん」
「くん、です」とかえるくんは、きっぱり訂正した。
私は、湯のみの前に座った。不思議と、こわくはなかった。百九十日近く、私に話しかけてきたのは、コピー用紙の場所を尋ねる人だけだったのだ。話しかけてくる蛙のほうが、ずっとましだった。
かえるくんの話は、こうだった。
外殻のさらに外、B3の床の下の、二重の船殻のあいだに、みみずくんが眠っている。みみずくんは、このコロニーで決まらなかったことの重さでできている。「継続検討」は、回転の力で少しずつ外側へ沈み、六年かけて、そこに溜まった。溜まったものは、ときどき寝返りを打つ。
「三日後の月曜、十時ちょうど。ラベンダーが噴き出す時刻に、みみずくんは大きな寝返りを打ちます。外殻の一部が裂けて、第三会議室が、まるごと真空に吸い出されます。十二人と、一人ぶんの霧と一緒に」
私は、しばらく黙っていた。「どうして、それを私に」
「ぼくが戦います。でも、ひとりでは勝てません。そばにいて、見ていてくれる人が要るんです」かえるくんは、大きな目で、まっすぐ私を見た。「みみずくんは、見られていると動けません。見るというのは、記録することです。あなたの台帳が、要るんです」
「ほかに、もっと適任の人がいるはずです。部長とか」
「いいえ。あなたしかいません」とかえるくんは言った。「あなたは、この会社でただ一人、決めた人の欄が空欄であることを、空欄として書き留めている人です。それに、あなたは誰からも話しかけられない。誰にも気づかれずに、B3まで降りていける。こういう戦いには、目立たない人が要るんです」
その言葉を、私はひさしぶりに聞いた。このコロニーの辞書からは、とうに消えているはずの言葉だった。かえるくんは、どうやら、ここの辞書を使っていないらしかった。
かえるくんは、規程を全部読んでいた。B3の羊の人に、読ませてもらったのだという。
B3の下
日曜の夜、私は台帳を抱えて、B3へ降りた。
羊の防寒服の人が、何も聞かずに、床の点検口の鍵を開けてくれた。蓋を持ち上げると、下は真っ暗だった。一・〇五Gの、ぬるい暗闇だった。かえるくんは、私に向かって一度うなずき、暗闇の中へ、ぬるりと降りていった。
私は点検口のふちに座って、台帳を開いた。そして、一行目から、声に出して読みはじめた。
「第六十一日。規程の最終改定日はいつですか。返事、ありがとうございます、検討しときます。議事録、記載なし」
暗闇の底で、何かが、ずるりと身じろぎした。
私は読みつづけた。第六十四日。第六十八日。第十四条の余白。見積書の裏の三つの条件。清掃日誌。決定者〇件。四・一秒。読むたびに、暗闇の底で、湿った重いものが、少しずつ押し戻されていく気配がした。ときおり、霧の漏れるような、しゅうという音がした。かえるくんの、短い、くぐもった声も聞こえた。
百行目を読んだあたりから、記憶がない。
医務室
気がつくと、医務室のベッドにいた。
「B3で倒れていたんですよ。貧血でしょうね。委託の方が運んでくれました」と看護師が言った。蛙の話は、誰もしなかった。
ベッドの横の丸椅子に、郷田さんが座っていた。郷田さんは、私が目を開けたのを見て、低い声で言った。
「……立て。立つんや、アリ」
それから少し照れたように、咳ばらいをした。「いや、寝とってええ。寝とけ。……この会社にはな、拾う係がおらんのや。落ちとるもんを拾う係が」
月曜の十時、ラベンダーは予定どおり噴き出した。定例会は予定どおり開かれ、予定どおり継続検討で終わった。第三会議室は、どこへも吸い出されなかった。
その日の午後、施設課から、全部署あてに短い報告が出た。「外殻B3下部の応力値が、日曜深夜を境に十二パーセント低下。原因不明。経過観察」
有村の在籍半年間の勤怠・作業記録を見ると、本人あてに正式に割り当てられた作業は〇件で、名前の無い付箋で置かれた作業が二百三十一件ある。誰かが彼を外すと決めた記録は、どこにも無い。孤立は、誰も決めていない。全員が少しずつ、話しかけなくてもよい理由を持っていただけである。
同じ期間、施設課の点検記録には、外殻B3下部の応力値が六年かけて緩やかに上昇していたことが記されている。その記録を会議にかけるかどうかは、「継続検討」とされていた。
くん、です
その夜、部屋に戻ると、かえるくんがテーブルの前に座っていた。体のあちこちに、ひどい傷があった。
「倒すことは、できませんでした」とかえるくんは言った。「眠らせただけです。みみずくんは、また重くなります。決めない会議があるかぎり」
「台帳は、役に立ちましたか」
「とても」かえるくんは、少し笑ったように見えた。「あなたが読んでくれているあいだ、みみずくんは一度も寝返りを打てませんでした。見られているものは、動けないんです」
かえるくんは立ち上がった。立ち上がると、少しずつ、透きとおっていった。最後に残ったのは、テーブルの上の二つの湯のみと、緑色の付箋が一枚だけだった。付箋には、几帳面な字で、こう書いてあった。
緑色の付箋
台帳を、続けてください。名前の書かれた付箋は、これが最初だと思います。――かえるくん
数
この三十日間に、挨拶以外で私に話しかけてきた回数は、三回だった。一日平均〇・一回。数字は、先月と変わらない。
内訳は、かえるくんが二回、郷田さんが一回である。
点検口の蓋の横に、農業区画で分けてもらった花を一輪、置いてきた。水をやる人がいるかどうかは、わからない。
名札は、いまも「アリ」のままである。名札は四文字までだが、日報の署名欄に、文字数の制限は無い。今日から、署名を本名に戻す。
――有村 譲