六時四十分

毎朝六時四十分、穂積ちはやは始発のネコバスに乗って、コロニーの端の姿勢制御室へ行く。

部屋の奥の壁に、赤く塗られた鉄のハンドルが一本ついている。彼女はそれを、時計回りに四十一回まわす。まわすたびに、古い歯車が「ギイイ」と鳴る。

コロニーの回転は、一日にほんのわずかずつ遅れる。十五年前に入れた制御ソフトの不具合で、自動補正は九年前に誤作動を起こして以来、止められている。「当面は手動で補正する」と、そのとき施設課と本社が決めた。正しい判断だった。誤作動で回転が速まれば、もっと大きな事故になる。

当面、には期限が書かれていなかった。

正式に直すには、本社の保守業者へ改修チケットを出し、本部長の決裁を受けなければならない。チケットの回答には三日かかる。決裁は軸の上で行われ、軸の上ではどんな書類も浮いてしまう。それよりも、ハンドルを四十一回まわすほうが、ずっと早かった。

入社一週目に、前任の吉岡さんが教えてくれた。教え終わった翌月、吉岡さんは地上へ異動した。それから四年、穂積は一日も欠かさず、ハンドルをまわしている。

ギイイ、ギイイ、という音は、通気管を伝ってコロニーじゅうに届く。社員たちは、それを農業区画のどこかにいる鳥の声だと思っている。誰かが冗談で「ねじまき鳥」と名づけ、その名前だけが定着した。鳥を見た者はいない。

実際、その音は、世界のねじを巻いているのだった。

先生、手順書が

穂積は、社内のあらゆることを知っている。どのシステムがいつ入り、どこの設定がなぜそうなっているのか。誰と誰が話せば片づくのか。

だから、みんなが穂積に聞く。「穂積さんに聞けば早い」。聞くほうにとっては、本当に早い。早いので、誰も手順書を書かない。手順書がないので、また穂積に聞く。

夜、フロアに誰もいなくなってから、穂積はときどき、白紙の文書を開く。表題だけは、もう三回打った。

新規文書(保存されていない)

姿勢制御 手動補正手順書

表題の下に一行目を打とうとすると、画面の隅に通知が出る。「穂積さん、ちょっと聞いてもいい?」。それに答えると、もう一つ出る。十二件に答え終わるころには、終電のネコバスの時間になっている。

ある夜、穂積は白紙の画面に向かって、誰にともなく、小さく言った。

「先生……。手順書が、書きたいです……」

先生は、どこにもいなかった。

有給

十月、本社が有給休暇取得率の目標を七十パーセントに定めた。社員を休ませるための、まっとうな目標である。

浅利部長は部の一覧を見て、穂積の欄が〇パーセントであることに気づいた。部長は、やさしい人である。

「穂積さん、たまには休んでよ。部の数字もあるしさ。ほら、自由にのびのびと」

穂積は一瞬、六時四十分のことを考えた。一日くらいなら、ずれはごくわずかのはずだ。それに、ハンドルのことを話すなら、四年間チケットを出さずにまわしてきたことも話さなければならない。彼女は何も言わずに、水曜日に休みを入れた。

水曜日、穂積は九時四十分に目を覚ました。四年ぶりの寝坊だった。

彼女は鍋に湯をわかし、スパゲティーを茹ではじめた。吉岡さんが置いていった古いレコードプレーヤーで、ロッシーニの『泥棒かささぎ』序曲をかけた。湯が沸騰し、乾いた麺がしなやかに沈んでいくのを、ぼんやり眺めた。

電話が鳴った。

穂積は出なかった。スパゲティーを茹でているあいだは、電話に出ない。それは彼女が、四年ぶりに自分に許した、たったひとつの規則だった。

電話は、十一回鳴って、切れた。また鳴った。


水曜日、フロア

最初に気づいたのは、大西だった。十時半、机の上のコーヒーの表面が、ほんの少し傾いていた。

十一時、ゼムクリップが一個、机から一センチ浮いた。

十一時半の定例会では、異変が起きた。柏木の「そうじゃないんだよなあ」から出た霧が、いつものように胸の高さを漂わず、ふわりと天井まで昇っていってしまったのである。霧は誰の鼻にも届かなかった。その日の議事録には、六年ぶりに、決定事項が一つ記録された。

「穂積さんに連絡する」

十三時、重力が二パーセント下がった。社員たちは、廊下を少しはずむように歩いた。郷田は机の縁をつかんで「なんや、腰が軽うてかなわん」と言った。B3では規程の綴りがわずかに軽くなり、羊の防寒服の男が、七年ぶりに一冊を最後まで読んだ。

十四時、全員が穂積に電話をかけた。誰も出なかった。

十五時、回転数が四パーセント落ちた。施設課から非常連絡が入った。予防措置として第三エアロックを閉鎖せよ、という指示だった。

受話器を握った大西が、青い顔で叫んだ。

「第三エアロック、封鎖できません!」

「なぜだ!」

「手順が、穂積さんの頭の中にしかありません!」

浅利部長が、宙に浮きかけた書類を押さえながら言った。「事件は、いったい、どこで起きてるんだ」

誰も答えられなかった。最後に、新人の芳山が、おそるおそる社内AIに打ち込んだ。

チャット履歴(芳山 / 十五時十二分)

なぜ重力が減っているのですか。

姿勢制御のドリフト補正が、本日実施されていないためです。

誰が補正しているのですか。

穂積ちはやさんです。毎朝六時四十分に、手動で。過去四年間、一日も欠かさず実施されています。

フロアが、しんとした。全員が、今朝のギイイという声を思い出そうとした。

今朝は、鳴かなかったのだ。

十六時、大西が穂積の部屋の扉をたたいた。扉が開くと、穂積は片手にフォークを持っていた。

「穂積さん……。世界が、止まりかけてる」

「……あ」

スパゲティーは、ちょうどいい固さに茹で上がっていた。

編者註

姿勢制御の自動補正は九年前、誤作動を受けて「当面の措置」として無効化された。判断は合理的だったが、措置の期限と見直しの担当者は定められていない。以後九年間、改修チケットは一件も起票されていない。

手動補正は、この九年間に二人の社員が引き継いで実施してきた。手順書は存在しない。補正を誰が行っているかは、社内AIの運用ログと入退室記録を突き合わせれば、いつでも特定できる状態にあった。特定を求めた者はいなかった。

木曜日、六時四十分

翌朝、穂積はいつもより十分早く姿勢制御室へ行き、ハンドルを五十三回まわした。前日のぶんを取り戻すためである。ギイイ、ギイイ、と、ねじまき鳥がいつもより長く鳴いた。重力は、昼までに元に戻った。

その日の朝礼で、浅利部長は穂積に礼を言った。心からの礼だった。

「いやあ、穂積さん、ありがとう。穂積さんがいないと、本当に回らないねえ。ははは」

比喩ではなかったが、全員が笑った。

話し合いの結果、穂積の有給休暇は「今後は前もって調整のうえで」取ることになった。有給取得率の集計からは「業務上やむを得ない者」として外された。本社に改修を頼もうという声も出たが、柏木が「本社に頼むと三日かかるし、穂積さんがやってくれるなら、それがいちばん確実だよねえ」と言うと、全員がうなずいた。誰も悪くなかった。全員が、穂積を気づかっていた。

その夜、穂積は白紙の文書を開いて、表題の下に、初めて一行目を打った。

姿勢制御 手動補正手順書(下書き)

一、赤いハンドルを、時計回りに四十一回まわす。

通知が出た。「穂積さん、ちょっと聞いてもいい?」

彼女は文書を保存して、閉じた。

翌朝六時四十分、ねじまき鳥は鳴いた。その声が誰のものなのか、フロアの全員がもう知っていた。知っていて、もう一度、忘れることにした。世界は今日も、きっちり五十七秒で一回転している。