いまのAI周辺で起きていること
AIについて自信たっぷりに語る人が、この2年で急に増えました。その説明の一部は正確で、一部は誤っていて、そして多くは正確さを確認できない形で語られています。
これは個人の資質の問題ではなく、技術が普及する過程で必ず現れる状態です。インターネットが企業に入り始めた時期、クラウドという言葉が独り歩きしていた時期にも、同じことが起きていました。当時「ホームページを持たないと取り残される」「クラウドにすればコストが下がる」という説明が、根拠の提示なしに通っていたのを覚えている方もいるでしょう。
共通しているのは、技術そのものではなく、技術についての語り方が商品になっているという点です。この章では、なぜそうなるのかを構造として押さえます。構造がわかれば、個々の発言を人格で判断せずに評価できます。
専門領域が細分化されていない
成熟した分野では、専門性が細かく分かれています。会計の話をするとき、税務の専門家と管理会計の専門家と監査の専門家は、それぞれ別の人です。誰がどの範囲の専門家なのかが社会的に共有されているため、「その論点は私の専門外です」という発言が自然に出てきます。
AIの領域はまだこの分化が進んでいません。「AIに詳しい」という一括りの肩書きの中に、次のような、実際にはほとんど重ならない専門性が混在しています。
- モデルの仕組みを研究している人
- APIを呼び出すアプリケーションを作れる人
- 社内のデータを整備できる人
- 法規制と契約を読める人
- 導入プロジェクトを回した経験がある人
このうち1つの経験がある人が、残り4つについても意見を求められ、そのまま答えてしまう。これが「わかった風」が生まれる最大の構造です。悪意は必要ありません。境界が共有されていないので、本人も自分の範囲外だと気づいていないのです。
肩書きと語り口が、説得力の代用品になる
聞き手の側にも構造的な問題があります。技術の妥当性を自分で判断できないとき、人は代わりに判断しやすい手掛かりを使います。
- 肩書き(「AI推進室長」「元大手ベンダー」)
- 語り口の自信(言い切る、専門用語を多用する、断定する)
- 実演の有無(その場で動くものを見せられる)
- 他社名(「大手企業も導入しています」)
いずれも内容の正しさとは独立した指標です。特に3つ目が厄介です。動くものを見せられると、それを作った人は全体を理解しているはずだと感じます。しかし表示画面を短時間で作る技術と、業務で使える仕組みを設計する技術は別のものです(この差はシンプル版 第4章「AIを使ったコーディング・システム開発」で扱っています)。
PoCが作れることの意味
いまは、簡単な試作なら短時間で作れます。これ自体は良いことです。問題は、試作を作れることが、深い理解の証明として受け取られてしまう点にあります。
試作で確認できるのは「この処理が原理的に可能か」です。確認できていないのは、例外への対応、権限の設計、件数が増えたときの費用、失敗時の動き、そして誰が保守するかです。ここが埋まっていない状態で「できました」と言えば、聞き手は完成に近いと理解します。
二月二十六日、朝凪精機でクラウゼル・テクノロジーズが2週間のPoCの成果を実演しました。社内FAQを読ませたチャットはどの質問にも数秒で答え、常務の大槻はその場で「本導入だ。四月から全部署に広げられるか」と言いました。翌朝、情報システム課の倉田が取り寄せた読み込み資料一覧には「FAQ 30件」とありました。過去の回答メールをクラウゼルが一問一答に整え、型番の表記をそろえたもので、デモの質問例もここから作られていました。社内にFAQと呼べるものはなく、あるのは手書きのノートと、旧版と新版の回答が混ざった約3万スレッドのメールです。デモに嘘はありませんでした。本導入が口にされたとき、資料の件数と出どころが確かめられていなかっただけです。実演の対象範囲を確認しなかったことが、唯一の失敗でした。
この場面は物語之巻 第3話「PoCは成功した」に出てきます。
「取り残される」という圧力
この構造に、時間の圧力が加わります。「いま始めないと差がつく」「競合はすでに使っている」という言い方は、判断を急がせるために非常に効果的です。効果的な理由は、反論するには相手より詳しくなければならないように見えるからです。
実際には反論は必要ありません。急ぐべきかどうかは、次の1問で確認できます。
「いま始めないと遅れる」と言われたら、「遅れると、具体的に何がどれだけ不利になりますか」と聞いてください。答えが「他社もやっている」「時代の流れ」で終わる場合、その提案は自社の状況を検討していません。逆に「この業務の処理時間が月○時間、競合は既に○%削減している」と具体的に返ってくるなら、それは検討に値する情報です。
この章で持ち帰るもの
大事なのは、疑うことではありません。相手の専門範囲を確認することです。次の一言は、失礼にならずに範囲を確認できます。
「今回の話のうち、ご自身が実際に手を動かされた部分はどこまでですか」
誠実な相手なら、この質問には具体的に答えられます。「モデルの選定は経験があるが、データ整備は別のチームだった」という答えが返ってくれば、その人の話をどこまで信頼すべきかがはっきりします。答えを曖昧にする、あるいは質問を軽んじる反応が返ってきた場合、それ自体が情報です。