七月八日 顧問の昼食
七月、アンシンテックの一行の中に、先月まで常務だった大川がいた。名刺には「顧問」。昼の個室に呼ばれたのは、持田と影山だった。
「上位プランの話は、合意書どおり進めておいてくれ。黒田くんが何か言っても、判はもう押してある」
「大川さんが作られた土台を、私どもで守ってまいります」
六月、黒田には同じ顔で「前の常務の時代は進めにくかった」と言っていた。影山はほとんど話さず、聞いたことをその日のうちに2冊に分けて書いた。黒田に見せる1冊と、誰にも見せない1冊。大川にはもう判を押す権限はない。残っているのは人のつながりと、昔の部下の弱みだった。顧問料は常務の給料の半分で、責任は1つもない。
七月十日 「該当なし」
「全社の自作ツールの台帳を作ります。シャドーITの可視化は、グローバルではガバナンスの基本です」
担当は三好になった。去年、自分の見積もりツールで騒ぎを起こした本人だ。新井は知らず、持田は知っていて推した。推進室の中で丸められるからだ。各部の回答は、物流・購買・経理・営業とも「該当なし」だった。
「どこも、ないって言ってるっす。台帳はほぼ空っすね」
三好の声は少しうれしそうだった。台帳が空なら、自分の1本も探されずに済む。
「ないんじゃなくて、言うと面倒だと思われてるだけ。黙っていれば今までどおり使える仕組みだと、誰も申告しない」
七月十四日〜二十五日 53本
水野と内田が、共有フォルダのマクロと、公開のAIサービスへの通信の記録を突き合わせると、2週間で53本が見つかった。
棚卸しのメモ(水野)抜粋
- 経理部 ― 月次の売上集計のマクロ。締め日の扱いが3通りあり、どれで集計したかが出力に書かれていない
- 物流部 ― 出荷量の予測のシート。欠品を除いた数字で作られている。作ったのは物流部長
- 購買部 ― 仕入れ先の比較表。表に出ない重みがかかっている。決めたのは購買部長
- 営業部 ― 見積もりの文面を作るツールが4本。1本は取引先名と掛け率を個人アカウントの公開サービスに送り、パスワードがプログラムに書いてある
- お客様センター ― 去年いなくなった派遣の3人が作った、回答案の早見表
「書けば、止めろと言われるか、書類が増えるかでしょう。これがないと締めが3日遅れるんです。直せるのも、わたしだけで」
相原も、早見表を取り上げられるのが怖くて黙っていた。誰もが手元の1本を守るために黙り、その中には会社に必要なものと、会社を少しずつ損なうものが同じように混ざっていた。購買の比較表の重みを外すと、1位の仕入れ先が入れ替わった。いつも1位の会社は、購買部長が役職定年のあとの話をもらっている会社だった。
個人アカウントを使う1本は、三好が去年のツールを作り直したものだった。三好は台帳の下書きから、その1本を外した。影山は下書きを丸ごと写した。どの部長が何を黙って使っていたか。台帳は、そのまま弱みの一覧になり、黒田の机へ行った。
53本のツールを、禁止せずに管理するには、何をどう決めればよいだろう。そして、台帳に載せたくない人は、なぜ載せたくないのだろう?
七月二十八日 分け方
水野は53本を、間違えたときの影響の大きさと、扱うデータの区分で分けた。
「すぐ止めるのは、機密を外に送っているものと、パスワードを書きこんだものの2本。公式にするのは、全社で使う・機密を扱う・止まると業務が止まる・長く使う・お金の計算をする、のどれかに当たるもの。それ以外は、登録だけしてそのまま使っていい」
「止めるのが2本だけ? もう少し多いほうが、ガバナンスが効いてる感じが出るんだけどな」
「止める数を増やすと、次から誰も申告しなくなります。今は、黙って作って見つかってから謝るほうが通りやすい。登録したら引き継ぎの書き方を手伝う、相談に乗る。そうやって、登録したほうが得にします」
引き継ぎの書式は1ページにした。目的、動かし方、変え方、依存、連絡先、止める条件。数字を出すツールは、計算の前提を出力に一緒に書く。
夕方、水野は三好の前に通信の記録を1枚置いた。
「台帳から、1本抜けてる。今日中に登録して、個人アカウントをやめて、パスワードを外して。そうしたら、わたしは誰にも言わない」
その日から、三好は水野の頼みを断らなくなった。正しいことをさせた結果ではなく、弱みを握った結果だと、水野は分かっていた。影山と違うのは何に使うかだけだと、自分に言い聞かせた。
八月一日 部長会
「全社の自作ツール53本を可視化しました。グローバル水準の取り組みです」
水野の分類では、購買の比較表は「公式にするもの」だった。重みを決めた理由を残すことが条件だった。
「購買の比較表は、長年の現場の知恵だろう。そのままでいい」
「常務のご理解に感謝します」
台帳の写しで、黒田はどの部長の弱みがどこにあるかを知っていた。守ってやれば、恩になる。比較表は「そのままでよいもの」に移され、経理の集計と早見表は公式になった。
「経理課長には、守ってくれる常務がいないから直る。守ってもらえる人のものほど、直らない」
その夜、内田は会議のことを持田に送らなかった。入社してから初めてのことだった。
「八月一日 台帳は53本。1本は作った本人が外し、1本は常務が守った。外した1本を載せさせたのは、わたしが握った弱みだった」