五月七日 値上げの通知

アンシンテック「ご利用料金改定のお知らせ」

契約書第14条(価格の改定)に基づき、十月一日以降のご利用料金を現行の1.4倍に改定いたします。上位プラン「エンタープライズ・プラス」へご移行いただいた場合は、現行の料金を据え置きます(ご契約期間は5年となります)。ご回答は六月末日までにお願いいたします。

「長くお付き合いいただくほど、御社専用の資産が育ちますので」

「七月からの件は、変わりないな」

「もちろんでございます」

総会まであと6週間。七月から大川はアンシンテックの顧問になる。自分がいた会社の5年契約は、顧問としてこれ以上ない手土産だった。

「私の任期のうちにまとめておこう。次の体制に、面倒を残したくないからな」

面倒を残さないために、5年分の面倒を残す。大川はそれを、送り出す側の親切だと思うことにした。

五月九日 三部長会

「常務は5年に延ばすつもりだ。延ばされたら、俺が常務になっても5年は手が出せない」

「うちに乗り換えていただければ、1か月で移せます。中身はどこも似たようなものですから」

塩見はアンシンテックの管理画面の中を見たことがない。見たことがないから、1か月と言えた。物流部長は「予測には、うちの欠品の数字をそのまま使ってもらえればいい」と言った。欠品の注文を記録していない数字だと知っていて。

「経営会議では値上げを前に出す。常務に賛成する人間は、値上げに賛成する人間になる」

値上げを止めたいのではない。自分の業者に席を空けたいのだ。どちらの側も、会社の利用料を自分の順番のための道具として話していた。

五月十二日〜十四日 契約書を読む

須賀と水野は、3年契約の条文に、契約の前に確かめるはずだった項目を今になって当てていった。

契約の確認(須賀・水野のメモ)

  • 停止時の保証 ― 稼働率が99.5%を下回ったとき利用料の一部を返す。応答の遅れと上流の事業者の障害は対象外
  • データの扱い ― 学習への利用は「しない」。それ以外の利用、保存期間、保存場所、再委託先は記載なし
  • 専用モデル ― アンシンテックに帰属。契約が終われば使えない。データの取り出し方法も定めなし
  • 途中の解約 ― 残りの期間の利用料を一括で支払う
  • 上位プラン ― 期間中に他社へ移っても、残りの期間の利用料は一括で支払う(新しい条項)

「保証されるのは、止まらないことじゃなく、止まったときに少しお金が返ることだけですね。止まっているあいだの仕事の損は、誰も払ってくれない」

一年前のメモには、宇佐美の言葉が須賀の字で残っていた。「条件は、まず始めてから詰めましょう」。データを預けたあとで交渉する、という意味だった。顧問弁護士は、交渉の余地はあると答えた。

「常務には持っていきます。指摘したことを残します。それでも判を押すなら、それは常務の判断です」

須賀は、止めるとは言わなかった。止めようとして止まらなかったとき、止めようとした人が残る。20年近くかけて覚えたのは、残らない場所に立つ方法だった。

4割の値上げか、5年への延長か。どちらかを選ぶ前に、万年商事は何を確かめておくべきだったのだろう。そして、その確かめを急がせているのは誰だろう?

五月十五日〜二十三日 どこまで来たか

乗り換えられるのか。水野は内田と相原と、管理画面の中身を数えた。回答案のテンプレートが約260本、登録した社内の知識が約1,900件、専用モデルの設定。どれもアンシンテックの中にしかなく、書き出せるのはテンプレートだけだった。

「依存には段階がある。呼び出すだけ、独自の機能、データを預ける、業務の手順が合わせて変わる、追加学習したモデル。うちは半年で5段目まで来てた。深く頼るのが悪いんじゃない。どこまで来たかを誰も数えてなかったのが問題」

塩見に「移すときの作業・担当・日数」を聞くと、返事は「お打ち合わせの上で」だった。言えないなら、1か月は願いにすぎない。

水野はできることから始めた。テンプレートを全部書き出して自社に置く。十二月の100件に相原の集めた例外を足して200件にし、期待する答えと一緒に保存する。どこに替えても、同じ200件で比べられるように。替えなくても、同じ名前のまま中身が入れ替わったことに気づけるように。止まったらすぐ困る自動返信だけは、人が手で返す手順を1枚にして、一度やってみた。

内田がそれを持田に伝え、持田は新井に伝えた。

「移る準備なんて、ベンダーに知られたら失礼だよ。どっちに決まるかは六月の新体制次第だろう」

新井は、どちらに決まっても勝ち馬に乗れるように、どちらの準備もしないことにした。

五月二十六日〜三十日 退任の三週間前

「4割を飲むのか、5年に延ばすのか。新しい業者も含めて、比べるべきでしょう」

「比べている時間はない。回答は六月末までだ」

「グローバルでは1社に預けきらないのが標準です。ただ、移行の費用も考えますと、慎重な判断が必要かと」

持田は一度も発言しなかった。聞かれたら「両方の良さがございます」と答えるつもりでいた。

「六月の新体制で決めてくれ」

大川は待たなかった。三十日の夕方、影山が上位プランへの移行の基本合意書を常務室に持ちこんだ。管理本部長の決裁に収まるよう、金額の欄は年ごとの料金だけで、5年の総額はどこにもない。大川が判を押し、影山が社印を押した。決めたのは大川で、あとで責められるのも、もういない大川になる。

翌朝、写しを読んだ須賀と水野は、同じ1行で手を止めた。「原契約の各条項は、本合意書に定めのない限り、引き続き効力を有する」。値上げの条項も、途中解約の条項も、ほかの条項も生きている。それが何を意味するのかを、水野はまだ考えなかった。

「五月三十日 常務は退任の三週間前に、5年の合意書に判を押した。七月から、常務はその会社の顧問になる」