九月二十四日 別紙3

一年目が終わる週、須賀は、五月の合意書の「原契約の各条項は、引き続き効力を有する」が気になって、元の契約書を読み直していた。一年前に指摘のメモだけ書いて判を押した別紙の3枚目に、それはあった。

業務委託契約書 別紙3「性能基準」(抜粋)

回答案作成機能について、甲が測定する手直し率(担当者が修正を要した回答案の割合)が、3か月連続して20%を超えた場合、甲は、当該機能に係る契約を、違約金の負担なく解除することができる。

一年前、宇佐美が「ご安心いただくための条項です」と言って足させたものだった。測る会社などない、と思っていたのだろう。

「『甲が測定する』。甲は、うちです。測っている人、いますよね」

「……います。相原さんと、わたしです」

「今度は、メモに書いて引き出しにしまうだけにはしたくないです」

同じ日 12か月の表

去年の十月から、誰にも頼まれず、誰にも出さずに取り続けた記録だった。

回答案の手直し率(水野・相原の記録)

十月 26%/十一月 24%/十二月 23%/一月 22%/二月 21%/三月 23%/四月 25%/五月 24%/六月 22%/七月 27%/八月 32%/九月 31%

20%を下回った月は、1か月もなかった。

「昼休みに書いてたの、無駄じゃなかったんですね」

「無駄じゃなかった。でも、これだけじゃ止まらない」

解除を決めるのは常務だ。新井は自動送信を「自動化率」として報告し、持田は推進室の実績として数え、増田の「3割削減」もその上に乗っている。止めたい人は、どこにもいない。正しい記録は、正しいというだけでは何も止めない。この1年で、水野が分かったことだった。

九月二十五日 2段の差

契約一年目の総括(新井 案)表紙

AI改革一年目 ― 大きな成果。活用率91%/効果 年間6,000万円/規程の周知率100%/自作ツール53本の可視化/AI倫理委員会の設置

水野の1枚は、うまくいったこと・止めたこと・分からないことの3欄で、止めたことは空、分からないことがいちばん長かった。データの整い方・組織の体制・統治の仕組み・使う範囲の4つで測ると、いちばん低いのはデータの整い方。いちばん低い軸が、全体の速さを決める。最後に、次に何かを選ぶときの順番を書いた。何を作らせるか、間違えたときの影響、データの機密度、件数、維持できる体制。製品の比較は最後。

同じ項目を新井につけてもらうと、4つとも水野より2段高かった。

「判定がこれだけ違うのは、見ている情報が違うからです。その差が、この会社の上と下の距離です」

「後ろ向きな報告は出せないよ。僕の最後の……いや、最初の1年の総括なんだから」

新井は、次の春にほかの会社へ移ることが決まっていた。一年目の「大成功」は、次の面接で使う話だった。

正しい記録だけでは、この1年、何も止まらなかった。水野は、何を差し出せば、1か所を止められるのだろう。そして、それは正しいことだろうか?

九月二十六日 夜 取引

水野は、12か月の表と別紙3の写し、それに私用の端末を持って、常務室の扉を叩いた。

「お客様センターの自動送信は、性能基準を満たしていません。違約金なしで解除できます。取締役会の議題に載せてください」

「止めたら自動化率が下がる。それに、アンシンテックとの話は大川さんが絡んでいて面倒だ」

水野は控えの画面を向けた。去年の七月、大川の電話の指示で持田が書いた自動送信の依頼の1行と、それが事故調査の前の晩に消されたこと。五月の合意書が、5年の総額を書かずに決裁の範囲に収められ、押したのが七月から顧問になる人だったこと。

「これをお渡しします。顧問として出入りされている方との話し合いに、お使いになれると思います。その代わりに、解除を議題にしてください」

「君も、影山と同じことをするんだな」

「はい」

否定できなかった。自分を守るために集めた控えを、一か所を止めるために、いちばん渡したくなかった相手に渡した。

「止めたら、代わりはどうする」

「送る前に人が読む形に戻し、派遣の方を2人戻してください。手直しの時間を考えれば、そのほうが安い。受注のFAXも、上位40社にWeb発注へ替えてもらえば、読む量そのものが減ります」

AIを使わない案を、黒田は初めて最後まで聞いた。正しいからではなく、大川とアンシンテックへの手札が1枚増えるからだった。

九月二十九日 取締役会

新井の総括が「大きな成果」として報告されたあと、黒田が手を挙げた。

「常務として契約を精査しました。回答案の自動送信は、性能基準を1年間満たしていません。違約金なしで解除し、送信は人が確かめる形に戻します」

精査したのは須賀と水野で、測ったのは相原と水野だった。

「その手直し率は、どなたが測ったのですか」

「現場の担当です」

いつもなら、矢野はそこで「承知しました」と言った。

「では、その記録を、これから毎月、取締役会に出してください。測っている人の名前と一緒に」

矢野の2度目の質問を、全員が初めて聞いた。変わったのか、再任後に1つくらい記録に残る発言をしておきたかっただけなのかは、分からない。解除は承認された。

ほかは何も変わらなかった。5年の合意書は続き、青空システムには追加の契約が出た。書類選考のAIは60点の足切りのまま春を待つ。誰も責任を取らなかった。影山は、黒田の机の控えの写しを、いつものように写し取った。

十月一日 お客様センター

二年目の朝、新しい机が2つ運びこまれた。戻ってきた派遣の2人のうち1人は、去年の七月に契約を切られた3人の1人だった。

「おかえりなさい。早見表、まだ使ってますよ」

相原は最初の回答案を手順書と突き合わせ、直すところがないのを確かめてから、送信のボタンを押した。

昼前、嘱託になった古川が、罫線の紙を2枚持ってきた。季節ごとに注文を替える取引先と、「前回と同じ」が前回と同じでないときの見分け方が12行。

「新しい人に何回も聞かれるのは面倒だからな。手当の分じゃないぞ。半分だけだ」

内田は、推進室の話を持田に送るのをやめていた。三好は、台帳の自分の行に引き継ぎの1ページを付けた。須賀は、引き出しのメモを日付の順に綴じ直していた。どれも小さく、どれも命じられたことではなかった。

「水野さん、転職しなかったんですね」

「決められなかっただけ。決めないで、ここにいた」

「決められなかった人がいたから、今朝、2人が戻ってきたんです」

水野は何も言わなかった。控えは自分を守るために書き始め、最後には取引に使った。12か月の表の右に、十月の欄を1つ足した。

「十月一日 一か所だけ、止まった。止めたのは正しさではなく、取引だった。それでも今朝から、相原さんたちは、送る前に読める」