八月二十日 1週間で32ページ
「AIの利用規程がない会社は、取引の相手にされません。来週までに作ってください。ほかの会社のものを参考にしていいですから」
影山は、生成AIに他社の公開規程を何本か読ませ、社名を入れて整えさせた。32ページ。読んだのは目次と最後のページだけだった。
万年商事 AI利用規程(抜粋)
第5条(禁止事項)(1)機密情報の入力(2)個人情報の入力(3)承認されていないサービスの利用 ……(5)その他、会社が不適切と認める利用
第12条(責任)AIの利用により生じた結果については、利用者がその最終責任を負う。
禁止は24か所にあり、使ってよいことと、困ったときの連絡先はどこにもなかった。第12条を入れたのは影山だった。上に責任が来ないように書けば、作った総務も作らせた部長も守られる。守られないのは、使った人だけだ。
「第12条、いいですね。責任の所在がはっきりしている」
はっきりしたのは、責任を負わない人のほうだった。
八月二十七日 「読みました」100%
規程は学習の画面に載り、最後のページで「読みました」にチェックしないと画面が閉じない作りだった。3日でチェックは100%になった。
「規程の周知率100%です。ガバナンスの基盤ができました」
三好は研修動画の最後に規程の画面を10秒映し、「これで規程も見たことになるっす」と言った。見たことになる、が、この規程のいちばん大事な働きになっていた。
八月二十九日 1つの質問
水野は5人に聞いた。「今扱っているデータは、規程のどの区分に当たりますか」。答えられた人はいなかった。規程に区分そのものがない。何が機密かを一人ずつに判断させれば、必ず誰かが越える。
営業部では、三好の後輩が、承認の一覧にない翻訳サービスを使っていた。
「申請すると、正式な審査で数週間かかるって聞いたので。そのあいだ仕事が止まるじゃないですか」
訳させている文章には、取引先の掛け率がそのまま入っていた。数週間というのは、審査の期間が書かれていないから広まった噂だった。
「迷ったら、誰に聞けばいいんですか。それに、第12条の『利用者が最終責任を負う』って、わたしたちのことですよね。回答案が何を見て答えたかも分からないのに」
確かめる手段を渡さずに、確かめる責任だけを移していた。
全員が「読みました」にチェックした規程が、なぜ働かないのだろう。規程を手順の中に埋めこむには、何を画面と申請に置けばよいだろう?
九月一日 法律のこと
規程を最後まで読んだのは、たぶん須賀が最初だった。顧問弁護士と整理したことを1枚にした。
AIの利用で確かめる法律の分野(須賀のメモ)
- 個人情報 ― 個人情報保護法と、個人情報保護委員会のガイドラインが一次情報。名前を伏せても扱いが自動で変わるわけではない
- 著作権 ― 入れる側と出てくる側を分ける。回答案に取引先のカタログの文章がそのまま出ている例がある
- 取引先との契約 ― 預かった図面や価格を外のサービスに入れてよいか
- 国内のAIの法律 ― 推進の性格。会社への義務は既存の法律から来る
- 国の事業者向けの指針 ― 拘束力はないが、規程の目次に使える
- 海外 ― 欧州の規制は段階的に適用が始まっている。欧州の取引先との取引で当たるかを確かめる
同じ日、宇佐美から案内が届いた。「弊社のAIスイートは、国内外の法規制に完全準拠しております」。いつ、誰が、どの条項を確かめたのかと水野が聞くと、返事は「弊社の法務部門にて確認済み」だけだった。
「うちも同じです。規程を作りました、の中身は、よその規程に社名を入れただけでした」
形だけの整備は、嘘をつこうとして生まれるのではない。何をすれば足りるのか分からないまま、作ること自体が仕事になったときに生まれる。須賀の1枚は、新井から影山へ回り、規程のフォルダの最後に綴じられた。改訂には常務の承認が要る、と影山は言った。
九月五日 画面にだけ
規程は変えられない。変えられるのは、情シスが持つ画面のほうだった。水野と須賀は、お客様センターの回答案の画面にだけ手を入れた。
回答案の画面に足したもの(水野・須賀)
- 入力欄の上に区分 ― 公開してよい/社内限り/取扱注意(顧客の個人情報・取引先の価格・預かった図面)。取扱注意は外部に送らない
- 迷ったときの連絡先 ― 情報システム部 水野/総務部 須賀(内線番号)
- 新しい使い方の経路 ― 登録だけ/簡単な確認/正式な審査(10営業日以内に回答)
- 人の承認なしに外へ送る仕組みは、それだけで高いリスクとして扱う
最後の1行に照らせば、去年の七月から動いている自動送信は、いちばん高いリスクの仕組みだった。止める権限は、2人にはなかった。
「名前を出すの、わたし、初めてです。今までは、指摘したってメモに書くだけでしたから。……たぶん、怖いんですけど」
「勝手に画面を変えたの? 規程と違うことを書いたら混乱するだろう」
「規程と違うことは書いていません。規程に書いていないことを書きました」
新井は黙った。言えば、規程に連絡先がないことを認めることになる。次の週から、画面の内線に1日2、3本の電話がかかってきた。どれも、32ページには答えのない質問だった。
「九月五日 規程の『読みました』は100%。迷ったときの連絡先は、32ページのどこにもなかった。今日から、お客様センターの画面にだけ、須賀さんとわたしの名前が書いてある」