行政区が公表しているデータには、5年前から計器が故障したまま放置されている2つの観測地点が含まれていなかった。修理予算は議会で凍結されたままだという。
「行政が持っていない空白のデータは、どうすればいいの?」
「自分たちで現場へ行って測るしかないわ」
〈フェルマータ〉の備品庫には、携帯用の簡易採気筒がある。行政区の据え置き型センサーほどの精密さはないが、同一の校正基準で複数回測定すれば、統計的な傾向は十分に掴める。2人は故障した2か所の観測所へ、毎日歩いて通うことにした。片道2時間。7日間の行程だ。
測定3日目の夜、ソラが採取データを端末にまとめて声を弾ませた。
「3日分のデータが出たよ! 2か所とも基準値を大幅にオーバーしてる。やっぱりこの地域の大気は恒常的に汚染されてるんだよ」
「たった3回の測定で断定するの、ソラ?」
「だって3回連続で同じ傾向だよ? 偶然とは思えないよ」
リンは、ミツにその3点だけのデータを入力して意見を求めた。
「ミツ。この3つのサンプルから、何が結論できる?」
「提示された3点はすべて基準値を下回っています。ただし、3回とも同一の午後14時台・晴天・無風条件下での局所サンプリングであり、日内変動および気象変動の影響を統計的に分離できません。また使用された採気筒の校正証明書は半年前のものであり——」
「分かった、もう十分よ」
3日間通って、3回とも基準外の数値が出た。——それでもリンが「3日で結論を出すな」と止めたのはなぜだろう?
2人は測定計画をその場で抜本的に練り直した。測定の時間帯を朝・昼・夜の3回に分散させ、風向と湿度も同時に記録する。さらに7日目の朝には、行政区が正常稼働させている基準センサーの真横で同時に測定を行うことにした。自分たちの携帯装置の測定誤差(バイアス)を客観的に把握するためだ。
7日間の調査を終え、サンプル数は21点に達した。全データを散布図に並べてみると、事実はまったく違う様相を示していた。
朝と夜の測定値は、2か所とも完全に安全基準の内側に収まっていた。値が悪化するのは、昼の特定の時間帯だけだった。さらにデータを突き合わせると、悪化は「東風が吹いているとき」に厳密に集中していた。東方には、稼働中の大規模金属精錬所が存在していた。
「場所そのものが汚染されていたんじゃなくて、東風の吹く昼間の時間帯だけの問題だったんだ……」
「もし3日目のデータだけで早合点して報告書を書いていたら、『この観測区は全域が壊滅的に汚染されている』って大誤報を打つところだったわね」
さらに装置の校正差も明らかになった。2人の簡易採気筒は、行政の公認センサーよりも一貫して0.01ポイント高く数値が出る癖があった。この系統誤差を全データから差し引いた結果、基準値を超過していたのは21点中5点に絞られた。それでも、5点は確実に汚染の直撃を受けていた。
ソラが、泥だらけになった測定器具を片付けながら呟いた。
「自分の足で測るのって、すごく地味で疲れる作業だね」
「そうね。退屈で根気がいるわ」
「でも、この21点の確かな数字は、いまこの宇宙でぼくたち2人しか持っていない本物の事実なんだ」
本星へ持ち帰る大気報告書の中で、自分たちの手で直接採取した一次情報は、この21点だけだった。他の大部分は、誰かが調査した公的記録を引用したものだ。だが、誰も測っていない空白の現実は、誰かが現地へ行って測るまで、永遠に暗闇のままである。文献調査と体系的リサーチ星間航海士の手引き 20