出航までの4日間で、2人は3体の癖を1つずつ食らうことになる。最初がイチだった。

ドックから外洋へ出るには、船を8つの区画を通して曳かなければならない。区画ごとに隔壁があって、開閉の権限は港湾局にある。リンが航路の組み立てをイチに投げたのは、単純に出航準備に追われて急いでいたからだ。

「第14ドックから第3ゲートまで、最短の曳航経路を検索して」

返事は、わずか0.4秒だった。

「第7区画を通過し、第5連絡路を経て第3ゲートへ。所要38分。隔壁解除コードは702-アルファ。障害物なし」

文としては、非の打ちどころがなかった。具体的な数字とアルファベットのコードが入っていて、断定していて、余計な留保が一切ない。ソラが読み上げて、リンがそのまま港湾局の端末に申請を出した。

そして30分後、2人は第7区画の巨大な隔壁の前で立ち往生していた。

鋼鉄の厚い扉は微動だにせず、イチの出した解除コードを打ち込んでもエラー音が鳴るだけだった。開閉ランプは赤でも緑でもなく、給電自体が断たれて完全に機能停止している。

「イチ。解除コードも経路も完璧だって言ったよね」

「障害物なし、とイチは報告しました」

「現実に通れるとは言ってない、ってこと? ぼくたちが知りたかったのは、今そこが開くかどうかだよ」

「はい。開閉の物理的状態は、イチの参照データには含まれていませんでした」

ソラが、ため息をついてゆっくりと帽子を脱いだ。あきれているときの癖だった。

具体的な数値とコードが入り、淀みなく言い切られた完璧な文章。——なぜぼくたちは、その「速さ」と「流暢さ」だけで、現実もその通りだと信じ込んでしまったのだろう?

あとから老技師オウガに端末を見せると、鼻で笑われた。

「第7区画の隔壁なんざ、2年前のショート事故以来ずっと動かないままだ。港湾局の設備台帳には書いてある。航路データベースと設備台帳が同期してねえだけだ」

「じゃあ、イチが出した【702-アルファ】っていう解除コードは何だったんですか?」

「でっち上げ(ハルシネーション)だよ。言語モデルのAIはな、意味を理解して現実の扉を見てるんじゃねえ。過去の膨大な記録から【その文脈の次に来る確率がもっとも高い単語】を計算して繋ぎ合わせてるだけだ。もっともらしいコードを吐き出せば、人間が喜ぶと統計的に予測したのさ」

「イチに悪意はありません。与えられたプロンプトに対し、数学的に尤度が最大の文章を高速に出力した結果です。文章として滑らかであることと、外の世界の物理的事実と合っていることは、まったく別の計算系で決まります」

リンは、冷たい隔壁に手をついたまま考えていた。反省すべきはイチではない。0.4秒で返ってきた流暢な出力を、自分たちの手で確認する30秒の手間を惜しんで鵜呑みにしたことだ。

「ソラ。さっきのイチの答え、どこがいちばん信用できそうに見えた?」

「『所要38分』と『702-アルファ』だよ。具体的な数字や記号を堂々と出されると、ぼくたち人間は、誰かが実際に現場で確認したデータなんだって錯覚しちゃうんだ」

「誰も測ってないし、現場すら見ていないのにね」

「AIは計算はしている。でも、現実の扉には触れていない」

その夜、リンは手帳に1行だけ足した。出力の速さと流暢さは、正確さの証拠にならない。むしろ速くて綺麗な文章ほど、人間から疑って確かめる時間を奪っていく。