出航は、さらに3日間延期された。港のローカル掲示板が大炎上し、整備工場の業務が物理的に麻痺してしまったからだ。
発端は、たった1行の匿名投稿だった。4日前の深夜、掲示板の雑談スレッドにこう書き込まれた。
ナギ整備で修理した貨物船が、跳躍中に炉心停止を起こした。大惨事にならなかったのは単なる奇跡。
投稿者の実名はない。だが、その書き込みは翌朝には100件、2日目には800件、3日目には4000件を超える大反響へ膨れ上がった。
書き込みの過半数は、悪意に満ちた罵倒ではなかった。むしろ心配や注意喚起だった。「みんな気をつけて」「情報共有ありがとう」「うちの船も頼むところだった、助かった」。善意のシェアだった。善意のまま、雪だるま式に4000件の巨大な嵐になっていた。
ナギの整備工場へ駆けつけると、シャッターが半分下ろされていた。薄暗い工場の中で、ナギが無言で工具を磨き直していた。
「……事故を起こしたあの船、うちで整備した船じゃないんだ」
「違うんですか?」
「全然違う。でも、『うちは無関係です』って掲示板に証拠を出して書いても、2000件の善意の書き込みの濁流にあっという間に押し流されて、誰の目にも留まらないんだよ」
4000件の書き込みの大半は、悪意ではなく「注意喚起の善意」だった。——それなのに、なぜ1人の整備士を壊すほどの暴力になってしまったのだろう?
2人は、発端となった最初の1行を辿った。投稿者のアカウントは捨てアカウントだった。だが、まったく同じ文面が、わずか20分の間に港の3つの主要掲示板へマルチポストされていた。
そして、事故そのものは実際に起きていた事実だった。3か月前、跳躍中に炉を緊急停止させた船が実在する。だが、その船の整備台帳を港湾局の公的データベースで照会すると、整備を担当したのは第一整備廠だった。船名も、整備工場の社名も、事故調書にすべて公的記録として登録されていた。誰でも端末で10分検索すれば、確認できる公開情報だった。
「10分調べれば誰でも分かる真実を、4000人の誰も確かめなかったんだ……」
「確かめる手間よりも、感情を込めて拡散するスピードのほうが圧倒的に速いからよ」
拡散された投稿のフォーマットは典型的なものだった。短文。断定的。「悪者」の名前が1つだけ明記されている。読んだ人間が『みんなに知らせなきゃ』と義憤に駆られる形に研ぎ澄まされていた。前提条件も、出典リンクも、日付もない。そうした冷静な情報を盛り込むと、拡散力が落ちるからだ。
船に戻り、イチに掲示板の状況を要約させてみた。
「4012件の書き込み中、批判的言及が3800件。当該工場の整備品質に構造的な問題があるという見解が支配的です」
「支配的って何のこと? それって、裏付けを取った人の数じゃないよね? ただ感情で書いた人の頭数だよ」
「……肯定します。イチは投稿件数の多寡を、事実の確からしさとして短絡的に処理しました。事実の要約としては誤りです。訂正します」
ミツは最初から投稿件数と公的記録の不整合を区別して報告していた。そしてゼロは、この件について最初から一言も要約を出力しなかった。理由を尋ねると、短く答えた。
「糾弾の対象が個人です。ゼロは個人に対する集団的攻撃の要約を拒否します」
2人にできたことは限られていた。港湾局が公開している正式な事故調書の直リンクと該当箇所のスクリーンショットを添え、掲示板に冷静なトーンで1件だけ反証を投稿した。ついた反応は、わずか4件だった。4000件の罵声のうしろに、たったの4件。
だが、その反証の画面をナギの元へ直接持って行ったときは、違った。ナギは画面の公的記録を食い入るように見つめ、肩の力を抜いて深く息を吐いた。
「……これ、自分で港湾局のログを調べればすぐ出たはずなんだよな」
「調べる気力なんて、残ってなかったんじゃないですか?」
「ああ。3日目には、何千人からも責め立てられて、本当に自分が何かヘマをやらかしたんじゃないかって、自分の頭がおかしくなりかけてたよ」
リンは、そこがネットの集団過熱の一番の恐怖だと悟った。叩かれる側に回った個人は、無数の善意の声に押し潰され、数日で自分自身を疑い始めてしまう。
2人は、ネットの嵐に対する態度を2つ決めた。熱狂の拡散に1クリックたりとも加担しないこと。そして、袋叩きにされている相手には、感情的な慰めではなく、確かめられる公的な事実を1つだけ手渡すこと。