いよいよ出航の当日、港湾局から届いた跳躍用燃料の請求明細書を見て、リンは目を疑った。

請求金額の欄に、太いフォントで0と記載されていた。

「これ、金額の打ち間違いじゃないですか?」

「いいえ、間違いではありませんよ」窓口の職員が愛想よく微笑んだ。「貴船は新規航路開拓の提携プログラムの対象船に選定されました。辺境航路のデータを持ち帰っていただく協定を結ぶ船には、燃料を全額無償で提供しております」

ソラが横で「すごく助かるね!」と喜んだ。だがリンは浮かれず、その提携プログラムの利用規約を出してもらった。全14ページに及ぶ細かな電子契約書だった。

読破するのに1時間かかった。3体のコアにも契約条項を精査させた。イチは「経済的に極めて有利な条件です」と太鼓判を押し、ミツは法的な論点を22件並べ立てた。ゼロは何も言わなかった。

そして、第11条の第4項に、こう記されていた。

本プログラムの適用を受けるにあたり、乙(運航者)は向こう1年間にわたる全航行記録および船内端末に入力された全データ(プロンプト・調査ログ・船内会話記録を含む)の恒久的な利用権を、甲に無償で譲渡するものとする。甲はこれらを【次世代判断支援AIの機械学習データセット】として自由に再利用し、第三者への回答生成として出力できるものとする。乙はいかなるオプトアウト(学習拒否)も行使できない。

「……プロンプトと船内会話の、AI学習データへの転用?」

高価な燃料が「全額無料」になる魅力的な提携。——その代償として提示された「航行記録と会話データの提供」には、どんな隠れたリスクがあるのだろう?

この船が必要とする高純度燃料の相場は、およそ2800クレジット。それがゼロになる。ということは、提供を求められている1年分の航行記録と船内データには、少なくとも2800以上の莫大な商業的価値があると、向こうの誰かが値踏みしているということだ。

「ソラ、意味が分かる? わたしたちが足で測った未公開のサイロIIIの大気データも、船内での内緒の会話も、ぜんぶ商船組合の巨大AIの学習用データセットに吸い上げられて、誰かが質問したときの検索回答として世界中に垂れ流されちゃうってことよ」

「えっ……! ぼくたちの調査の成果も、プライベートな会話も、まるごと奪われちゃうってこと!?」

「そう。一度AIのモデルに学習されたデータは、後から『消してくれ』と頼んでも二度と取り出せないし消去もできない。まさに、デジタルタトゥーよ」

「無料のAIツール」や「無料の燃料」を差し出す側は、決して慈善事業でやっているわけではない。ユーザーが打ち込んだ言葉や行動ログそのものが、AIを賢くし、新たなサービスを売るための最も高価な「資源(エサ)」なのだ。

2人はその場で無償提携をきっぱり断り、自分たちのなけなしの所持金から2800クレジットを支払って燃料を購入した。財布はほとんど空っぽになり、復路の予備整備費は消し飛んだ。

だが、断ったのは「港湾局が悪徳組織だから」ではない。取引の本当の対価が自分たちの尊厳と安全を脅かすものだったからだ。2800を浮かす代わりに、自分たちの未公開データや生活ログを誰に売り渡すことになるのか。対価の正体が隠されている取引は、それが高いのか安いのかすら合理的に判断できない。それが、リンの下した冷徹な決断だった。

出航の噴射シークエンスの中、リンは手帳にペンを走らせた。

「『無料』のツールには、必ず自分たちのデータという別の値段がついている。規約の第11条を読まない者は、自分たちの記録を勝手に他人のAIのエサにされる。」

ちなみに、ミツが事前に列挙した22件の論点の中に、第11条の機械学習利用条項はしっかり含まれていた。14番目に埋もれていた。2人が自らの目で規約を読んでいなければ、14番目の長文は見過ごされていたはずだった。